オリジナリティを求める人間という生き物

マーケティング

「他にやっているところはあるのか」
「誰かやったことのあるヤツはいるのか」

上司からそんなセリフを聞くとうんざりする。また事なかれ主義の「仕事したくない病」が出たなと思う。だから「前例主義」という言葉を聞くとグッタリとしてしまう。精神が萎んでしまう。そこに「誰もやってないからやるのだ」「やったことがないからやるのだ」という心意気はない。

ボクは子供の頃から”他人と同じであること”があまり好きではなかった。お店で買ってきたプラモデルよりも新築住宅の建築現場で拾ってきた端材を切って作る工作が好きだった。もちろんプラモデルはたくさん作った。でもそれはきちんと説明書を見ればだれが作ってもほぼ同じものが出来上がった。それはそうだ、プラモデルを売っているメーカーがそのように作っているのだから。だからガスの火で炙って溶かして多少の改造をしたりした。せめてもの既製品への反抗のつもりだった。

経験したことのあることしかやらない。誰かがやっているのを見て知っていることしかやらない。成功することしかやらない。失敗するかもしれないからやらない。そんな人もたくさんいる。それが悪いわけではない。時には石橋を叩いて渡るような慎重さも大切だ。しかし何か新しいことを始めようとしたときに慎重に吟味し過ぎればチャンスを逃すことにも繋がる。慎重に考えることはいいことだ。しかし考えた結果「失敗することが確実」でないのなら可能性に向かって一歩を踏み出す勇気も必要なのではないかと思うのだ。

前例主義は飽きられる。前に見たことがある、やったことがあるものは退屈だ。正直言ってつまらない。その結果がどうなるのか予想できるからだ。失敗する可能性は低いかもしれない。だが上手くいっても多くの場合は想定内の結果に過ぎない。思いもよらない幸運が舞い込んでくることはない。

「珍しきが花なり」は人の心理の基本だ。人は誰でも珍しいものに惹かれ、憧れる。誰も持っていないもの、誰も見たことがないものには悪魔の魅力がある。だから有名な絵画や珍しい骨董品には高い値がつき美術館には長蛇の列ができる。上野動物園のパンダには多くの人が集まるが和歌山のアドベンチャーワールドにはそれほどの人は来ない。上野のシャンシャンは1頭だが和歌山にはたくさんのパンダがいる。「たくさんいるなら今でなくてもいいや」となる。しかしパンダはパンダだ。和歌山では上野のシャンシャンよりも小さな子供のパンダだって見られるのに人はみんな上野を目指す。同じものでも希少価値がある方にだけ人は集まる。しかし人以外の動物にはそんなことは関係ない。常に潤沢にある方に集まる。その方が動物たちの欲求は満たされるのだから。

”オリジナリティ”などと言っているのは人間だけかもしれない。鳥などの求愛行動など見てみると見た目の派手さや動きのダイナミックさで競い合っているようには見えるが、メスがオスにオリジナリティを求めているようには見えない。求めているのは強さと生き残る力だけだ。なぜ人間だけがオリジナリティを求めるのだろう。

もしかしたら地球上に人間が増えすぎてしまったせいかもしれない。もちろん強さを誇示して争いを起こしている人間はまだたくさんいる。しかしそれ以上に人間は増えすぎた。そして強さを誇示すれば最後には人類は滅亡するしかないことを争っている人を含めて誰もが知っている。そこで増えすぎた同じ種類の人間が他の人間よりも優位に立つために考え出したのがオリジナリティ (他と違うこと) なのではないだろうか。必ずしも強くなくても目立つことで生き残る道が開けることもある。誰も持っていないものを手にすることで優れた人間だと思われる。オリジナリティは人間が生きのびるための大きな力になっている。

今ではほとんどの人がゲームをやっている。しかしゲームはしょせん誰かが作ったものだ。ゲームをやる時にそのゲームを作った人達以上のオリジナリティを発揮することはできない。作られた以上のことをゲームがもたらすことはないからだ。それはお釈迦様の手の上で得意になっている孫悟空にも似ている。そのゲームをやっている限り、制作者の手の上からは決して逃れられないのだ。しかしゲームにオリジナリティは必要ない。仮想の世界で思う存分強さを誇示すればいいのだから。

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