ジョージ・オーウェル。彼がこの小説を書いたのは1948年のことである。そのとき彼は既に、ロシア革命に関する風刺小説「アニマル・ファーム」によって世界的名声を得ていたが、まだ彼の中には風刺的衝動ともう一冊重要な書物を書きたいという気持ちが残っていた。そしてこの気持ちこそが彼に、風刺文学の最高峰としてスイフトの「ガリバー旅行記」と並び賞せられる「アニマル・ファーム」を越えた「1984年」を書かせたのだった。
この小説は単に未来としての1984年の姿を書き綴ったに過ぎない。世界を三分する大勢力と一党独裁政治。絶え間なく続く戦争。集団管理社会。ビッグ・ブラザー。こう言った背景の下に、一人の反逆者ウィンストン・スミスの生活を描いている。24時間、常にテレスクリーンによって監視されている生活の中、ウィンストンはふとテレスクリーンの死角を見つける。個性を持つことを許されない高度な集団管理社会の下で彼は個性を持つことを決意するのである。
読み進むうち、私は今の日本の実態とオーバーラップさせてみたくなった。少なくとも今の日本では民主主義が確立され、事実は的確に伝えられ、プライバシーや思想の自由も守られている。この小説ほどすさんだ世界ではないように思える。しかし本当にそうだろうかと疑問を投げかけてみたくなるのである。確かな目で、鋭い思考でもう一度今の日本を今の世界を見直してみようではないか。今、高校進学率は90数パーセント、大学進学率さえも40数パーセントになっている。「高校くらいは出なくては…。」「大学くらい出て当然…。」など、という声もよく聞かれる。大学で何をしたか、ということよりもどこの大学を出たかが問われる。つまりは学歴である。読んだこともない本の名前を覚え、わかりもしない思想をただただ暗記し、大学へ進学する。何も考えてはいけない。考え込んだりしては遅れをとってしまう。とにかく目の前にあるものを速くこなさなくてはいけない。心の中のことを捨て、英単語を覚えなくてはいけない。別にやらなければいけない訳ではないが、やらなければ落ちこぼれてしまう。世間が気になる。もう立派な集団管理社会ではないか。学歴という象徴を万人が崇拝し、全ての顔がその象徴に向けられている。これが今の、1984年の日本の、本当の姿ではなかろうか。
学歴社会だけではない。マスコミニュケーションは過度なほど高度に発達し我々の知らないことは皆無のような錯覚さえ起こさせる。些細なことが全国に報道されている。だからといって我々は全てを知っているだろうか。誰も確信を持つ事はできまい。我々は知らぬ間にコントロールされているのかもしれない。報道に溢れている社会で人々をコントロールすること程簡単なことはない。流行は競うように追われ、我も我もと皆が同じ格好をしたがる。個性の尊重を唱え乍ら、個性を捨てることことばかりに専心している。周りを見回すことに頭を悩ませ、自分を振り返ることを忘れている。
セネカ(*1)は「自分にかえれ」と言ったという。古い時代から哲学者が見つめてきたのは他ならぬ自分自身である。しかしニーチェ(*2)も言う様にあらゆる人は自分自身から最も遠い者なのである。一度でも自分の本当の姿を見た事があるか。私は今でも半信半疑の眼で擬と自分の心を眺めている。
人は自分の翼を信じ、翼のみちびく方へ飛ばねばならない。それなのに多くの人々がわざわざ自分の翼をむしりとり行列の後につこうとしている。
来年は1984年である。オーウェルの書いたような世界がいきなり出現することはまず考えられない。しかし我々の「1984年」は別の形で、オーウェルの世界へと、いやもっと恐ろしい世界へと急速に近づきつつある。それはオーウェルも予期しなかった「1984年」の姿である。それを食い止めることができるのは1983年に生きている我々だけである。今はしゃべっているときではない。舵を繰るべき時だ。我々は「1984年」を迎えようとしている。
「『1984年』を読んで 」鳥巣真充・1983
*1:帝政ローマ時代の哲学者
*2:19世紀プロイセンの思想家
先日、昔のアルバムを整理していたら高校の卒業アルバムに挟まっていた読書感想文集を見つけた。G・オーウェルの「1984年」の感想文らしい。いや正確にはボクの名前では書いていない。もう時効だから白状してしまうと、当時ボクのアパートに入り浸っていた後輩の名前で書いた文だ。夏休みの終わりに「まだ宿題の感想文書いてない!」というので「書いてやろうか」ということになり、夏休みが終わって学校に提出したところあろうことか佳作に選ばれてしまったのだという。事情を知るクラスの友達からは「卑怯者!」と散々罵倒されたらしい。悪いことをしてしまった。もう40年近く前のことである。
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