ボーっとしてる人

道の向こうから誰かが歩いてくる。知らない人だ。うつむき加減に黙々と歩いている。スマホを弄っているわけでもない。歩道に立っている交通標識にぶつかりそうになって驚いて避けている。その交通標識は10年も前からそこにあったというのに。歩く時に少しでも前を見ていれば30秒前には気付けたはずだ。
周りで何が起こっているのか見ようとも知ろうともしない人は周りの状況に興味がない人なんだと思っている。ニュースも見なければ新聞も読まない。マスコミが報じることには、少なくないヤラセと虚偽、意図的な思想や感情の操作が含まれていることに注意を払いつつも「何が起こっているのか」の概略くらいは知っておいて損はない。それを僕は「インプット」と呼んでいる。

「スタバで仕事をしています」という人がいる。僕はカフェで仕事をすることは、まずない。カフェに行くときは人間観察だ。家で仕事をしている時も音楽は掛けない。ラジオもつけない。まったく音がない環境に身を置いている。
人混みに出れば多くのものが視界に入りあらゆる音が耳に入る。視覚も聴覚もインプットだ。本を読むこともニュースを見ることもインプットだ。インプットは大切である。アウトプットするためにはその何百倍ものインプットが必要だ。
だが、何かがインプットされているところでは僕は仕事ができない。僕の仕事はアウトプットすることである。インプットしている時に同時にアウトプットできない性分なのだ。だからスタバでは仕事しない。カフェではインプットすることだけを心がけている。それでもアウトプットしたくなった時は”その思いつき”を簡単にメモする。そして環境を整えてからメモを見てアウトプットするわけだ。

僕はアウトプットしているときにはインプットできない。インプットしないということは、つまりはボーッとしているということだ。アウトプットしている時は常にボーっとしている。ボーッとしている時に一般社会に身を晒すことは危険だ。だから歩いているときには考え事をしない。アウトプットをやめる。

スマホを弄ることはインプットだろうかアウトプットだろうか?
僕にとってはインプットでもアウトプットでもない。ただひたすらボーッとしているだけだ。先の標識にぶつかりそうになっていた人と同じである。何も考えていないのだ。だから僕は歩きスマホもしない。

ほとんどの子供は概ねよそ見をして歩いている。それを見た親は「前を見て歩きなさい!」と叱る。叱った親は再びすぐにスマホに視線を落として歩き続ける。

「親を見て子は育つ」