「〇〇は△△である」
「■■は××である」
「これを●●という」

こんなつまらなく意味のなさそうなことには誰も興味を持たない。教科書の執筆者たちによって事後的に整理された知識を、丸暗記して答案用紙を埋めていくことを学問とは言わない。

そのことを誰が知ろうと思ったのか、なぜそれがわかったのか、彼はもしくは彼女はどうしてそれを知ろうと思ったのか。それは科学であろうと歴史であろうと文学であろうと芸術であろうと変わらない。そのエキサイティングで切実なドラマこそが興味深く面白いのであって、退屈な知識には物語を語る力はない。

人は物語があってこそ感動したり共感したりする。歴史の年号を丸暗記することには、テストで高得点を挙げて誰かに褒められたり尊敬されること以外に大した価値はない。いや、テストで高得点を挙げて有名大学に進学したり大企業に就職することで豊かな人生が送れるのならそれだけでも素晴らしい価値だが、学問や歴史、過去や思想への興味の源泉になることはほとんどない。

つまりそれは学問への興味ではなく、偏差値と出世への興味に過ぎない。そのことでたくさんの収入を得られたとしても事実や学問自体への興味を掻き立てはしない。暗記したものは”覚えた”という以上の価値は生み出さない。しかしそこにわずかでも物語があれば人の心を動かすことはできる。

”事後的に整理された知識”をいくら暗記しても物語がなければ興味は動き出さない。しかし一方で、”整理された知識”が頭の片隅にでも残っていれば、ほんのちょっとしたきっかけで頭の中で、心の中で考えがダイナミックに躍動する燃料にすることはできる。どんなに優れたエンジンがあっても燃料がなければ1ミリも動くことはできない。

だからといって”退屈な教科書”をそのままにしておいていいという言い訳にはならない。なぜなら「面白い!」「なんでだろう?」と感じることで自分自身が「事後的に整理された知識」を自分で習得すれば、同じ勉強(燃料)がもっと効率的に確実に身につくであろうことは間違いない。