先日、テレビのドラマを見ていて「なるほど」と思わせる場面があった。スーパーでレトルトのおでんを買い物カゴに入れたら、近くにいた見知らぬおじさんに「おでんくらいちゃんと作ってあげればいいのに」と言われたという話だ。

そういえば以前、中学の同窓会で同級生の女の子(今はオバさんだけど)が、仕事から帰ってきた亭主に「今日はチャチャっと簡単に冷やし中華でいいから」と言われたり、夕食に冷やし中華を出したら「こんなもん飯じゃない」と言われて腹が立ったと言っていた話を思い出した。言っておくが冷やし中華はインスタントだってチャチャっと簡単に作れるものではない。

話を戻そう。一体おでんはどこから自分で作れば”ちゃんと”したことになるのだろう。三年かけて畑で蒟蒻芋を栽培して、出来上がった芋から蒟蒻を作らないとちゃんとしないのか。家で鶏を飼って卵を産ませてその卵を茹で卵にしておでんに入れなければちゃんとしたことにならないのか、自分の船に乗って魚を釣ってきて、その身を練り物にしてはんぺんやさつま揚げを作らなければちゃんとしたことにならないのか、別の畑で大根を作り…、昆布は…、出汁はカツオを釣ってきて鰹節を作ることからやらなければダメなのか。醤油は、みりんは…。

きっとどれもやればできないことはない。どれもその昔、誰かが作って食べ物にしたのだから。手作りの蒲鉾などを作っているところを見て「自分でも作れるんだぁ」と驚く人がいる。そりゃそうだ、今だってどこかで誰かが作ってスーパーで売られているんだから。

でもだからと言って、スーパーでパックのおでんを買ってきて鍋に移して温めたものはダメなのか?ちゃんとしていないのか?レトルトのおでんすら温めたことのない人間がえてしてそういう物言いをする。もっともコンビニのカウンターでで出来上がったおでんを買ってきて食べるのは自分で作ったおでんにはならないような気もするが、これだって”ちゃんとした”おでんには違いない。

でもさつま揚げを作るために魚を採ろうと釣竿や針、テグスや重りまで作らなくては”ちゃんとした”ことにならないのか。それはもはや自給自足である。今の社会はたくさんの人が分業してそれを買うことで成り立っている。

そういえば以前、ダイビングの仲間で大晦日の年越し蕎麦を食べようということになった。まだコロナの遥か以前のことだ。その時はスーパーで買った蕎麦粉をこねて蕎麦を打ち、パスタマシンで伸ばして切ったものを茹でて食べた。蕎麦つゆは出汁と醤油とみりんで作ったがネギとワサビは買ってきた。

その時、友達の一人が言った。「来年はさぁ、近所の畑にソバを植えるか?裏山の石切場から石を切り出してきて、石臼も自分で作ってさぁ…」。

ふと、あの時のことを思い出した。♪あの頃き〜みはぁ、若かったぁ〜♪