お釈迦様の掌で楽しめる人

スマホゲームでもボードゲームでもそれは必ず誰かが作ったものだ。スタートがありゴールがあり、ルールを作り、様々なアクシデントを仕組んで楽しく遊べるように考えられている。だからゲームをやっている時の楽しさはそのゲームを作った誰かから与えられたものだ。

ゲームをプレイしていると勝っているときには自分が優れた人間のように思え、負けているときには”ゲーム”に負かされているように感じる。でもその裏にはゲームの制作者がいて、自分はその人の考えた筋書き通りに動かされているわけだ。だからプレイしている間は製作者の意図に逆らうことはできない。逆らえばゲームはその場で終わり自分は楽しみを奪われる。

誰かが作ったゲームで楽しめる人、誰かが作った映画を見て楽しめる人、誰かが書いた絵を見て楽しめる人、誰かが作った音楽を聴いて楽しめる人、誰かが書いた小説を読んで楽しめる人、誰かが作ったドラマを見て泣ける人。

もっとも大抵のことは誰かが作った何かで楽しむことができる。でも自分でかんがえて作らなければ気が済まないことだってある。しかしすべてのものを自分で作ろうと思えば膨大な時間と労力とアイデアを注ぎ込まなければならない。それに自分で書いた小説は自分で中身が全部わかっている。

ゲームだってなんだってそれが誰かによって作られたなら、その誰かは「どうすればゲームに勝てるか」を知っているはずだ。いや勝つ方法は分からなくてもどうして勝ったのか、負けたのかを説明できる。つまりそこには意外性がない。人は意外なことに出会すと無意識に興奮する。興奮して快楽を感じる。

でもそんな快楽だけに飽き足らず、誰かがすでに知っていることを自分が後追いすることに我慢できないこともある。芸術家、いわゆるアーティストには他人が作ったものでは我慢できない分野のある人が多い。自分で作り上げたものはすべてが自分の意志で出来上がっているとも限らない。

いわゆる「天から降ってくる」というやつだ。それはおそらく今までの自分の中のどこかにあったものなのだが、自分がそれを持っていることを意識すらしていなかったものなのだと思う。そんなものがふとした拍子に現れればその瞬間は逆に天にも登るような快感を得られる。でもそれは降りてきた瞬間に自分が意識できるものに変わってしまう。

だからこそまたあの快感を求めて何かを自分で作ろうと思うのだろうと思う。

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