ちょっと前から”ビッグデータ”というものが流行り出した。ビッグデータはその名の通りビッグなデータだ。Bigは”大きい”訳ではなく”膨大な”データのことで、いわゆるアンケートや世論調査とは違って意識しないうちに勝手に集められていることが多い。もちろん対象になる人に無断でデータとして使うと法律的にも問題になるので”知らないうちに”了解させられている訳だ。

だからといってそのデータを使われることで個人にとって不利になるようなことはあまりないので、今では統計データなどに普通に使われている。最近では新型コロナの緊急事態宣言下で人出がどのように変化しているのかなどを比較するために使われたりしている。これらのデータはスマホを持って歩き回るだけで勝手に収集されている。スマホを契約した時にデータを使うことに知らないうちに了解させられているのだ。

使い方によってはとても有用な情報になりうるが、逆にビッグデータを使えばなんでもわかるのかといえばそんなことはない。以前にも書いたがデータというものは誰から集めるのか、どこから集めるのかなど集め方によって意味することが180度違って見えたりする。意図的にデータを取捨選択することで自分の思うように見せ方を変えることもできる。

マスコミはビッグデータですべてのことを表現しているように標榜するが、多くの場合は単にごく狭い分野だけのシミュレーションしているだけだ。言葉に踊らされてはいけない。AI、量子コンピュータ、スパコン(スーパーコンピュータ)を使ってなどと聞くと物事をあたかもすごく正確に表しているように聞こえるがそんなことはない。コンピュータというのはどれも全てが四則演算をしているだけであり電卓がやっていることと基本的に変わらない。

シンギラリティという言葉が話題になったことがある。AIが人間を超える分岐点とも言われている。やがてAIが人間を超える知能を持って人間を支配する世界がやってくるという人もいる。しかし今の段階ではコンピュータが人間を超えることはない。なぜならコンピュータは人間の脳を模して作ろうとしている。しかし人間の脳の仕組みはまだ何もわかっていないからだ。

調べたり研究すればなんでも正解がわかると思うのは幻想である。そもそも正解のないものにはどう答えるのか。「結婚は究極の幸せの形だ」とか「結婚は人生の墓場だ」などと言われたりする。しかしその間にはあらゆるグラデーションがあって誰一人として同じものはない。一対のカップルでさえお互いの価値観は違っている。今流行の言葉で言えば「多様性」だろうか。

日本の教育では常に一つだけ正解があるものしか教えてこなかった。でもそんなものはほんのわずかしかないのだ。でも高等教育を受けたものはそのほとんどが一つだけの正解を求める。そしてそれが間違いないことだと思っている。そんな日本の教育に未来はあるのだろうか?