人生の手終い

「終活」という言葉が流行って久しい。自分の人生を終(しま)う準備のことをそう言うらしいがそれはそれで意味のないことではないと思う。しかし「お葬式には誰を呼んで欲しい」とか「骨は海に撒いて欲しい」とか「棺桶には誰それの写真集を入れて欲しい」なんてことは本人以外にははっきり言ってどうでもいいことだ。

死んでいく本人にとっては大切なことかもしれないが、お葬式などというものは残された人間のためにやるんであって故人には関係のない話だとボクは思っている。個人との思い出を懐かしんだり恨み節を言うのは必ず残った人だ。

誰かが死んで残されるのは膨大なガラクタや誰も住まなくなった家である。故人は死ぬ前に「後のことはちゃんとしてあるから」と言うがちゃんとしてあったことなど一度もない。「こんなもん取っておいてどうするつもりだったんだよ!」というものがおしれや戸棚の奥から山のように姿を現す。

恐らくは”本人の思い出”のつもりだ。それでも時々取り出しては懐かしんだりするならまだしも、ほとんどのものは取ってあることすら忘れ去っているのだ。残った人にとってはなんの価値もない。だからボクは遺品を整理する時にはティッシュやトイレットペーパーなどの賞味期限のない消耗品や金目のもの以外は迷わずゴミ袋に入れている。でも金目のものなどまず出てくることはない。意味なく取ってあるご祝儀袋の中身は常に空っぽだ。

自分が死んだら誰かが後片付けをやらなければならない。故人は”死んでしまえばそれまでよ”だが後には故人以外にはまったく価値を感じない膨大なゴミが残る。今では古物商やブックオフが引き取ってくれるものもあるが大抵のものは経年が酷くてタダでも引き取ってはくれないものがほとんどだ。最後は後片付けの専門業者にお金を払ってゴミの処分をお願いすることになる。それにも増して困るのは家だ。

特に核家族化が進んでからは遅かれ早かれ子供は家を出ていく。残されるのは中高年の親だ。そしてやがて年老いて老境に入る。物を片付ける気力も体力もなくなり家は中も外もゴミ屋敷と化す。綺麗好きとか片付けが得意とかそんなことは関係ない。ボクの母親も「私ってなんでも捨てちゃう人じゃない?」などと言っていたが、後になって片付けをした弟によれば「なんで年寄りはゴミばっかり溜め込むんだか理解できない!」と憤慨していた。

そして最後には跡を継がれることもなく住む人もいなくなった大きな粗大ゴミ=家、が残るのだ。しかしおそらくこれは高齢者だけの問題ではない。自分が若かろうと中年だろうと後を継ぐ(=子供や親戚など)人間がいるのかいないのかはかなり早い段階からわかっていることだ。誰もいなくなった時には家を売って老人ホームに入ればいいと思っていても、自分が老いさればえて気力も体力もなくなってから家を片付けて売ることなどできるだろうか。

元気なうちは「自分の面倒くらい最後まで看られる」などと言っていてもダメになる時は急に訪れる。そうなった時にはもう手遅れなのだ。自分の面倒がみられるうちに色褪せた思い出などとはさっさと手を切って、自分の最後を見定めておく必要があるのではないかと思う今日この頃である。

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