心が折れるとき

3・11。10年前のあの日、ボクは勤め先のビルのトイレの個室にいた。突然のグラっという揺れにも続いてやってくる下からの突き上げるような揺れも便座に座っていたボクは難なく耐えることができた。「こりゃちょっとデカいな」と思いつつ個室を出て手を洗って廊下に出てオフィスの入口まで歩いている間も揺れは続いていた。

オフィスのデスクに戻ると居室内はややザワついているものの概ね平穏を保っていた。避難訓練ではすぐに流れるはずの非常放送は30分経っても沈黙を保っている。背後にある映像事業部の何十台ものテレビが地震の緊急ニュースを流していた。

震源は東北の三陸沿岸。ボクはその瞬間に「津波が来るだろうな」と思った。小学校の頃から過去に何度もやってきたという三陸沿岸の大津波の話を思い出したのは、ちょうど1年前のチリ地震で三陸沿岸が津波で大きな被害を受けたというニュースを思い出したからだった。

しばらくするとテレビのニュースはヘリコプターから写したどす黒い大津波がビニールハウスや駐車場の車、飛行場の小型飛行機を押し流していく映像になった。津波警報は10mもの津波を予想していたがボクは生まれてから日本ではそんな大きな津波をテレビ画面でさえ見たことがなかった。

2004年にインドネシア・スマトラ島で起きた大地震による津波が起きたときにはダイビングでパラオに行っていたので映像も断片的にしか見ていなかったが、目の前で津波が街ごと飲み込んでいく光景には呆気にとられた。

公共の交通機関はすべて止まっていて復旧する見通しは全くなかったので家に帰る術は徒歩以外になかった。そこでボクは家までの約60kmの道のりを歩き始めたのだが、東京の街はどこも道路が車と人で埋め尽くされていた。もっとも人の流れは郊外に向かっていたので歩いていればいつかは着くだろうなと思っていた。

夜半過ぎの横浜あたりでは人も車も流れるようになっていたがタクシー乗り場はどこも長蛇の列でタクシーもやってくるのか来ないのかわからない状態だったので早々に諦めた。これなら歩いたほうが早い。

しかし横浜市を出るあたりで目の前に止まったタクシーが偶然にも東京から海老名方面に帰る車だったので声をかけたら乗せてもらえることになった。タクシーは基本的に自分の普段の本拠地以外では客を乗せては行けないことになっているが本拠地に帰るときに同じ方向に向かう客なら例外的に乗せてもいいことになっている。

明け方になってタクシーで家に帰り着いたが家の中は本棚にあった写真立てが落ちて割れた以外は被害もなかった。しかし翌日になっても翌々日になっても東海道線は復旧せず家の中でテレビニュースを見ながら1日を過ごした。

地震のあった日は金曜日だったが土曜日には伊豆半島にダイビングに行く予定だった。もちろん道路も通行止めになっているので出かけることはできなかったが翌週になっても翌々週になってもなかなか出かける気分にならなかった。

ボクの知り合いや身内に大きな被害があったわけではないが”日本中が大変なときに”出かける気分にならなかっただけなのだが、もしかしたらあの津波の映像を見せつけられたことでボクの心は折れかかっていたのかもしれない。

それは自分でも意外だった。それまでどんなに仕事が辛くてもこんな気持ちになることはなかった。それは自分さえ耐えれば済むことだったからかもしれない。でもあの時は自分がどんなに頑張ってもとてもたくさんの人の苦しみを癒すことさえできないことに絶望感を抱いていたのかもしれない。

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