たまたまだが、ここ数年は人の人生の最後を見ることが多かった。それも年老いて徐々に体が衰えて命が燃え尽きるような、言ってみれば「大往生」のような幸せな最後だ。人生はとかく思い通りにならないが、願わくば自分の命の終わりもそんな形で迎えられたら幸せだろうなと思う。

普段見る生きている人の顔は「死」など感じさせることはない。まだ若かったり重い病もなければ人生はこれから何十年も続いていくことだろう。まだ「死」などに思いを至らせる心境にはならない。しかし死を間近に控えるとその表情には緩やかに、だが確実に「死相」が現れてくる。これを死相というべきなのかはわからないが、いずれにしても命の炎が尽きる時を思わせる表情が現れるのだ。

それは死神に取り憑かれた表情とも言えるかもしれない。それは「あと1年くらいかな」から始まり、「あと一月くらいかな」となり「もう数日だな」と変わっていく。表情は明らかに死に近づいて行く。それを自覚しているのかはわからない。もし自分が幸運にもそのようなシチュエーションに立ち会うことができるなら最後に確認しておきたいと思っている。

若くして事故や病気で突然亡くなってしまう時には当然のことだが死相など見えない。だからこそ予期しないその死に狼狽するのだが、年老いて死にゆくその姿は生き物の最後を感じさせる。そんな時には「この人の身体はもう死にたがっているのかも知れないな」と思う。本人がどう思っているのかはわからないが身体が死にたがっているのならそうさせてあげたいとボクは思ってしまう。

でも現実には、そんな姿をした人をなんとかして生きながらえさせようとすることが多いように思う。どうして”医療”は限りある、もう終わろうとしている命を延命しようとするのだろう?

確かに医者が身内から「なんとか助けてください」と懇願されれば持てる技術をすべてつぎ込んで延命しようとするのは当然だ。依頼された以上、それを果たすことが医者としての使命だろうと思う。しかし年老いてやがて死を迎えることは自然なことだ。どんな”医療”をもってしても死を避けて通ることはできないというのに、どうして身近で心寄り添ってきた人が「静かに死なせてあげよう」と思えないのだろう。

自分より先に死なれて自分だけが取り残されるのが怖いのかも知れないが、それはエゴだと思う。自分のことだけを可愛がっているに過ぎないような気がする。そんなことを考えるのは不自然なのだろうか。