中学生の頃にはロバが歩くくらいのスピード(時速10キロくらい)と言われていた。しかし今では音速(秒速300m)くらいだと言われている。随分と加速したものである。”考える速さ”が脳内の神経信号が伝わる速さだとすると、それは単に脳内で神経伝達物質が化学反応を起こして電気信号を伝えるスピードと考えることができる。化学変化の速度は人の能力とは関係ないから頭が切れる人の速度が速くドンくさい人が遅いわけではない。

それでも現に頭の切れる人とドンくさい人は存在する。例えば素早く暗算ができる人や並外れた記憶力を持つ人などの話は聞いたことがあるだろう。数百桁の数字の並びを10秒ほどで正確に覚えてしまったりするのを見るともはや人間業ではない。しかしそんな能力を持っている人が優れた人かといえば必ずしもそんなことはなく、どちらかといえば他人とのコミニュケーションの取れない人だったりする。

おそらく多くの人が「あの人、頭いいよね」と思う人とは一つの能力だけが抜群に秀でているのではなく、いろいろな能力をバランスよく持っている人なのではないかと思う。もちろん一つ一つの能力も人並み以上に優れているのかもしれないが決して天才になれるような才能ではないのだろうと思う。

天才はある一つのこと(だけ)に人並外れた能力を持ち、それはたぶんあとからの努力で身に付けられるようなものではないような気がする。しかしどちらも生き物である以上、一つのことに力を注げばそれ以外のことが疎かになってしまうのは仕方がない。そうすると協調やコミニュケーションといった社会性に問題が出てしまうこともあるのだろう。

だからといって社会にとって不必要な人間かといえば決してそんなことはない。バランスの良さだけを追求してきたボクのような凡人には思いもつかない才能や芸術性をもたらしてくれることもあれば打算のかけらもない誠実さを教えてくれたりもする。そしてそれは決して凡人では思いも寄らない能力だったりする。我々はそれを”才能”と呼ぶ。

人には誰もが”成り合はざる処”と成り余れる処”があり、それを互いに補い合ってこそことをなすということが古事記の昔から語り継がれてきた。完全にバランスが取れた非の打ちどころのない人間などいないし、もしそんな人がいたとしたら限りなく理想的な面白みのない者になってしまうに違いない。

近頃は「みんな違ってみんないい」と言われるようになったがそれは単に”違うからいい”のではなく、お互いの違いを知ってその良さを引き出そうとすることがいいという意味ではないかと思っている。ただ違うからそれだけで素晴らしいという理屈ではどうも説得力に欠けるといつも感じている。