ケーキやアイスを目の前にした小さな子供は間違いなく嬉しそうな顔をする。ご飯を目の前にした時より間違いなく嬉しそうな顔をする。イチゴを食べる時、お寿司の蒸しエビや玉子焼きを食べる時も満面の笑顔になる。家族で回転寿司にやってきた子供のほとんどはまず最初に蒸しエビか卵の手を伸ばす。サーモンに手を出すのは小学生くらいになってからだ。もっともエビや玉子を取ってもネタだけ剥がして食べるくせにご飯(シャリ)は残すことがあるけれど。

子供が無心に頑張っているけどなかなかできなかったり、ご飯を食べている最中にどうしても眠くなってしまいお茶碗に手を突っ込んだまま寝てしまうこともある。子供ながらに「寝てはいけない」と頑張っているのにどうしても起きていられないことだってある。頑張っていながらどうしてもできない姿も可愛い。

無邪気な子供の笑顔はすべての人を幸せにする。それは普段から「子供が嫌いだ」と言っている人を含めてすべての人を幸せにする。子供の無邪気な笑顔にはその名の通り邪念がない。嬉しいことだけを無心に表わしている。しかし考えてみればそれは子供の笑顔だけに限らない。

大人だって無邪気に喜んでいる笑顔を見ると心が安らぐことがある。しかし元来、大人の心は邪念や打算に塗れていることが多い。だから笑顔を見ても本当に嬉しいのかどうかがわからない。こちらの気持ちを慮って嬉しそうな顔をしていることも多いし、喜んだ顔を見せておけば次にもっといいことがあるかもしれないと考えているのかもしれない。

打算のない大人はほとんどいない。なぜなら打算がなければ誰かにいいように使われたり騙されることがあるからだ。誰しもそんな経験を重ねるうちに打算的な大人になっていく。

「打算」とは「自分の損得を考えること」である。どうしたら自分が損しないで済むのか、どうしたら得するのか。日々の生活の中で大人は常にそのことばかりに腐心している。嬉しいかどうかより”得すること”ばかりを考えてしまう。楽しいことだって”得なこと”のはずなのに”お金”という尺度でしか考えられなくなっている。

小さな子供はとりあえずお金のことは考えない。楽しいか辛いかが生きていく上での一番の尺度だ。だから高いものだから美味しいとは思わないし、行列ができているから美味しい店だとも思わない。

自分が好きかどうかで判断する。美味しいかどうかは好き嫌いの好み次第で変わる。「美味しいから食べなさい」と言われても「健康にいいから食べなさい」と言われても嫌いなものは食べない。しばらくすると(親に)怒られないかどうかも大きな判断基準になる。褒められることはあまりないからそれは判断基準にはなりにくい。

いつまでもそんな風に生きていけたら素晴らしいなぁと思う。