おもひで

昔流行った流行歌を耳にすると、その曲が流行っていた頃の自分や友達のことを思い出す。それは通りすがりの流行歌でなくても合唱で歌った歌、ブラバンで野球の応援に行った時に吹いた曲、大学のオーケストラで定期演奏会に向けて練習したベートーベンなどシチュエーションは様々だ。

それは音楽に限らない。普段歩いている道でかつて自分が乗っていた昭和の車がちゃんと整備されていまだに走っているのを見ると、あの頃ドライブで行った場所や友達、そこで起きたハプニングなどが思い出されたりする。人の記憶は時間や場所、体験などとセットになって紐づいているから、長い時間が過ぎてもひょんなきっかけで鮮明に思い出すことがある。その時代の流行歌などと紐づいているからセットで覚えているのだ。

単に一つの記憶だけだったらよほど印象的なことでもない限りは、おそらく時間が経つに連れて忘れてしまって思い出すこともないだろう。小・中学生の頃は1日の間に起こることも比較的単純だった。もちろん友達もいたが人間関係もシンプルで、近所の友達、学校のクラスメートや先生、家族、親戚といったところで人数も限られていたから、その間の人間模様など複雑になりようもない。

大人になって仕事をするようになると自分の関わる社会は急激に広くなる。上司や先輩、取引先や同僚、いつもランチを食べに行く食堂のおばちゃん。それもただの取引先の担当者だと思っていたら趣味で付き合いのある人の友人だったりして、人間関係は網の目のように広がって複雑に絡み合ったりする。子供の頃の幼なじみから学生時代の同級生、趣味の友達や仕事仲間がお互いに刺激し合いながら新しい人間関係のネットワークを広げていく。

そんな大きな網の結び目で起きた事はネットワークの中であちこちからの刺激を受けて記憶が強まる。時には多くの記憶が絡み合って勘違いしてしまうことも少なくない。勘違いが勘違いを生み、ありもしないことがあたかも現実だったかのように思い込んでしまう。何十年も経って偶然に再会した友人からそれが自分の思い違いだったことを指摘されて、思い違いの上に築いてきた自分の人生を想ったりする。でも「これでいいのだ」。過ぎたことを悔やんでも仕方がない。

そしてこのネットワークもやがて人との付き合いが疎遠になったり誰かが死んでしまうことで今度は徐々に縮小していく。ネットワークは縮んでいくが思い出だけは凝縮されて残る。最期にすべてのネットワークが消えて無くなった時、おそらく自分の中に残こるものは思い出だけなのだろう。思い違いの人間関係と思ひでを肴に一杯飲るのも悪くなさそうだ。

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