あのよろし

ボクにとって花札は子供の頃の遊びだった。まだお小遣いなどなかった頃の話なのでもちろん賭け事ではなかった。まだ幼稚園だった頃に平塚の梅屋デパートでおばあちゃんにせがんで花札を買ってもらった。花札の遊び方はおろか花札という意味すら知らなかったのだから単に綺麗なおもちゃとして欲しがったのだろうと思う。家に帰ると幼稚園の孫に花札を買い与えたおばあちゃんは母や叔母に随分と叱られたようだが、それを聞いたのは随分後になってからの話だ。

明治生まれの女だけあっておばあちゃんは花札の遊び方を知っていた。他の大人たちが留守の隙にボクと従兄弟の二人を相手に花札を教えてくれた。おばあちゃんの様子を見ているとどうやら他の大人に知られてはいけない秘密の遊びなのだということにボクと従兄弟は薄々感づいていた。それが背徳の心をくすぐったのはたぶん間違いない。

若い人の中には花札をご存じない方もいるかもしれないが、江戸時代から続くいわゆる博打遊戯である。詳しい遊び方はボクももう忘れてしまったが、ボタンや桜、猪、鹿、蝶などが書かれた札を使って麻雀のように役を作って競う遊びだ。それぞれの役には点数がついており最後にできた役の点数が高い方が勝ちになるのだが、絵が簡素で単純な札はできる役の点数が低い。

その札の中に「赤短(赤い短冊)」が書かれた札があるのだが、その短冊に書かれている「あのよろし」という字が何を意味するのか長年の疑問だった。そこでふと思い出してネットを検索してみた。すると早速ヒットした。便利な時代である。しかしそこに書かれていたのは、短冊に書いてあるのは「あのよろし」ではなく「あかよろし」なのだという。長い間”の”だと思っていたのは”か”という時の崩し字であって勘違いしていたわけだ。
では「あかよろし」とは何なのか。これは「実に素晴らしい」という意味なのだそうだ。つまり、

 明らかに宜しい → 明か宜し → あ可よろし → あかよろし

となったのだという。それにしても安い札なのに「実に素晴らしい」というのも可笑しなものである。赤短ばかり集めても実に素晴らしい役にはならない。そのとき目に留まったのは「”あかよろし”は別の言葉の写し間違いだという説だ。小倉百人一首の歌人としても有名な喜撰法師が詠んだ和歌にある言葉を写し間違えたという。その歌とは、

わが庵は 都のたつみ(辰巳) しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり

現代語に意訳すれば、

 私の草庵は都の東南にあって、そこで静かにくらしている。しかし世間の人たちは(私が世の中から隠れ)この宇治の山に住んでいるのだと噂しているようだ。

といったところだろうか。この中の「志かそすむ」という字の崩し字を「あかよろし」と勘違いしたらしい。そんな話を聞くと今も昔も同じようなことがあるのだなぁと思う。

海の魚に「ホンソメワケベラ」という10センチくらいの小さな魚がいる。関東地方あたりから赤道あたりまで広く生息しているありふれた魚だ。この魚は他の魚の皮膚やエラなどについた寄生虫を食べてくれることで知られており「クリーニングフィッシュ」などと呼ばれている。実に面白い生態なのでダイビングのガイドさんもお客さんに魚の名前と生態を説明するのだが、お客さんが初心者だと大抵は「コンソメワケベラ?」と聞き間違えてしまう。

そもそも標準和名である「ホンソメワケベラ」だって意味はよくわからない。これも聞いた話だが昔、この魚に名前をつけようとして論文にまとめた学者先生の字があまりにも読みにくく(当時の論文は手書きだったらしい)、論文を受け取った学会の職員がカタカナの「ソ」と「ン」を間違えて報告してしまったのだという。

”ン”を”ソ”に読み替えると「ホソソメワケベラ」となる。つまり

「ホソ・ソメワケ・ベラ」=「細・染め分け・ベラ」

となって、体が細身の・染め分けられた・ベラ、となって説明がつく。実際にホンソメワケベラは白と黒のツートンカラーである。学者先生には申し訳ないが、カタカナの”ソ”の字が下手くそで”ン”に見えたから間違って図鑑に載ってしまったワケだ。

名前の由来などひょんな事で勘違いされて間違ってしまっても時間が経てば次第にみんなに受け入れられていくのだから対して大きな問題ではないのだなぁと思う。でもそんな話もしばらくするとまた忘れてしまって「あのよろし」と大声で話してしまうのだろうなぁと我ながら情けなくなるのである。

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