不協和音

少し前に、最近は仕事のBGMにジャズピアニスト・チック・コリアの古いアルバムを聴いているという話をした。チック・コリアの曲には不協和音が多い。いや端的にいうと不協和音だらけだしコード進行も破茶滅茶に聞こえる。高校生の頃には全く馴染めなかった音楽だった。

ボクは小学生の頃、合唱団にいた。歌う曲はどれも綺麗なハーモニーとメロディで心が安らぐようなものばかりだった。だから子供の頃は綺麗な三和音だけが綺麗な和音だと思っていた。三和音には長三和音や短三和音がある。いわゆるメジャーコード(長調)とマイナーコード(短調)だ。メジャーコードとは基音(一番下のベース音)から長三度高い第3音と完全5度上の第5音の組み合わせだ。マイナーコードは第3音が半音低い短三度となる。

この他にもさらに高い音を加えた四和音などのいわゆる”セブンス・コード”などがあって奥が深いのだが、この和音の基本を教えてくれたのが高校時代に音楽の授業の担当だったオクムラ先生だった。先生によれば、かつては基本的には長三和音と短三和音以外は全て「不協和音」とされていたが現代では不協和音であっても積極的に使われるようになってきているという話だった。

確かに中学生の頃夢中になっていたフォークソングやロックの音楽でも不協和音は盛んに使われていた。ただスケールやコード進行はある程度決まったパターンに沿っていたのだが、そのルールに縛られずに自由に(勝手に)演奏し始めたのがチック・コリアやキース・ジャレット、山下洋輔などの前衛的なミュージシャンだったのだろう。

ピカソやムンクの絵を見てどれほどの人が「美しい」と感じるだろうか。ボクのような凡庸な人間にとって”上手い絵”とはとりもなおさず、”本物にそっくりに描いた絵”であり”写真のような絵”だ。どれだけ見た通りに写し取れているかが法ksの基準であって、ピカソの絵を見ても「上手だな」とは思わない。中世以前の写真が発明される前は画家にとっても”本物そっくりに写し取ること”は上手い絵の条件だったに違いない。

遠近法を使って立体感を出し、見たままの大きさと角度を寸分の狂いもなくカンバスの上に写し取り、見たままの色を彩色して再現することが素晴らしいことだとされていたに違いない。そもそも絵画は王族や貴族の肖像画を描く職業画家から始まっている。その頃に写真があれば画家という”職業”は全く違うものになっていたかもしれない。

一方で音楽はどうだろうか。音楽は絵画と違って目に見えない。聴いた音を頭の中で想像することによって感じ取る。お手本になる対象物が目で見えないから”上手い下手”の評価が難しい。そこでバッハが作った平均律を使って教会音楽や古典音楽が作られてきた。バッハやヘンデルをお手本にしたわけだ。だからそこ(安定)から外れたものは”不協和音”として忌み嫌われてきた。

完全和音は安らぎを与えるが不協和音はある意味での不安定さや緊張をもたらす。でも安定だけではやがて人は飽きてしまう。時には少しばかりの緊張が神経をピリッとさせる。適度な緊張は脳や神経を活性化させる(ような気がする)。しかし世の中に過度な緊張が溢れ出してくると精神も緊張やストレスに慣れてくる。ちょっとばかりの緊張では飽き足らず、音楽にもさらに不安定な緊張を求めるようになってきた。それがかつての前衛ジャズだったのではないかと今更のように感じている。

不協和音はずっと聴いているうちにだんだんと心地よくなってくる。一種の麻薬のようなものなのだろうか。麻薬や酒のように中毒になっているのだろうか。もっとも不協和音の中毒になっても何も困らない。でもボクはまだキース・ジャレットの域にはたどり着けないでいる。

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