自分が実際に経験することの意味

今年もまたこの日がやってきた。日本には長崎や広島の原爆の日、関東大震災の日、東京大空襲の日、神戸の地震、福岡や広島・岡山の豪雨災害も報道で知っているだけである。熊本地震の後には復興割で熊本を訪れたがその揺れを自身で体験したわけではない。

たくさんの災害の記念日があるがボクが実際に少しでも経験したのは2011年3月11日の東日本大震災だけである。経験したといっても都内の鉄筋コンクリートのビルの低層階でちょっと足元がふらつく軽度の揺れを経験したに過ぎない。阪神淡路大震災や熊本地震の揺れは関東地方まで届かなかったし地下鉄サリン事件も東京・赤坂のホテルニュージャパンの家事も東京湾・羽田沖の「機長、何をするんですか!」の逆噴射墜落事件も御巣鷹山のJAL123便の大事故もボクは自宅のテレビで知った。所詮はテレビの中の出来事だった。

自分が直接目にしたり体験したことの残像は強烈だ。一方で人から聞いたりテレビで見て知っているだけの情報はある意味で心の奥底に響いてくることがない。しかし地面から伝わる地震の振動やきなくさい臭い、暑かったり寒かったり熱かったり冷たかったり痛かったりひどく疲れたり、五感で感じた経験はなかなか忘れることができない。そういった体験は度を超えるとPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こすこともあるが、逆にそれくらい強烈な刺激を受けたことでないと自分の中には残らないということだ。

人間は忘れる動物だと言われる。辛い体験も時が経てばだんだんと和らいでやがては忘れる。それが辛い体験を乗り越えるための原動力にもなるしいずれは笑い話にすることもできる。心に深く突き刺さった棘のようにいつまで経っても忘れられずに苦しむことを一般的に心の傷として良しとせず、何かショッキングなことが起きると必ず心のケアが話題になる。しかし傷や病気はただ治せばそれでいいのかということがいつもボクの頭の中にある。すべてのことを忘れてしまうことは事故であれ災害であれ、”せっかくの”経験と知見を無駄にしてしまうことにはならないだろうか。

失敗した苦い経験が深い心の傷として残っていればこそ「次は失敗しないようにしよう」と努力するモチベーションに繋がるのではないだろうか。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉がある。夜はデコボコして痛い薪の上に寝て起きれば苦い肝を舐めて痛みを忘れないようにするからこそ発揮される力もある。辛い経験をしたときにもすぐに忘れようとするのではなく、その経験を忘れずこれからの人生に活かしていくことを考えることも大切なのではないかと思うのだ。

あの震災から9年。津波などで亡くなった方や原発事故でいまだに避難生活を余儀なくされている方もいらっしゃる中で失礼だとは思いながらも、ボクはそんなことを考えている。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください