みんな同じがみんないい

「みんなちがって、みんないい」とは最近巷で流行っている言葉だ。童話詩人だった金子みすゞさんの詩の一節だと聞いている。そのフレーズが使われるときには「個性は大切だ」ということをことさら強調したい場面で使われることが多いように思う。とりわけ障がい者をさして「(みんなと)違っていることを肯定する」流れを作り出そうとしている。このことに全く異論はない。

しかしこの詩はもっと積極的なことを言っている。みんなそれぞれの個性を持っていてそれを「どちらが優れていてどちらが劣っている」というのではなく「どちらも大切」だというのだ。小鳥は自由に空を飛ぶことができるけど私のように地面を早く走ることはできない。私が体を揺すっても綺麗な音は出ないけれど綺麗な音を出す鈴は私のようにたくさんの歌は知らないと。でもどっちも大切なんだと。だから「みんな違って、みんないい」のだと。

ニッポン人は特にみんなと合わせようとする風潮が強い。他のみんなとどこかが違うとそれだけで迫害されることもある。いじめられることもある。日本は全体主義の文化だと言われる。古くから「出る杭は打たれる」と言われるようにみんなと同じでなければいつ”打たれる”かわからないし安心できない。日本人にとって他人と違っていることはそれだけでリスクだ。違っていればそれだけで「変な人」というレッテルを貼られる。社会的に差別的な扱いを受けることもある。

日本の子供は小さい頃から「みんなと同じ」になることを求められて育てられてきた。算数も国語もみんなと同じように勉強してテストで良い点数を取ることが求められてきた。そんな風潮は良くない、と誰かが言い出して”ゆとり教育”をすればみんながそれぞれの好きなことをやれる自由な時間ができると考えた。しかし画一化された日本の教育に自由な発想のできる子供を育てるスキルがなかった。そしてのちに「ゆとり世代」と呼ばれ、あるのかないのかわかりもしない世代間の格差とともにある種の社会的差別を生んだ。

みんなと同じように勉強して、みんなと同じようにいい学校に入って、みんなと同じようにいい会社に入って、みんなと同じように結婚して家庭を作って…。そうしなければ「変わり者」と呼ばれて差別されるような社会を作り出して、そのレールから少しでも外れた者には平然と冷たかったりする。だから誰かが、特に自分の子供がレールから外れそうになれば家族が総出で必死になって元に戻そうとする。

高度成長期以来、平均的な人間を作り出して企業に工場に送り出すことが戦後日本の効率化のためには必要だった。しかしその日本の工場が海外に移転され日本経済が空洞化した後に求められたのが「人と違ったことのできる人材だ」ということになった。人を育てるということは国家百年の計である。人は今日明日で急に育つものではない。何十年も何百年もかかって教育の根本から設計し直してその上で初めて育っていく。

文部科学省は大学入試をチョコチョコっと変えれば教育が変わると思っている。そんなお役人にこれからの国家百年を任せておいていいのだろうかと甚だ不安になるのだ。

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