わびさび

「侘び寂び」と書く。侘しいこと、寂しいことである。翻って茶道の世界では静かで簡素な落ち着いた趣のことを指すようである。それは無駄や虚飾を削いで極限まで本質を求めることだと言ってもいい。華美を削ぎ取るといってもとその本質まで外してはいけない。本質を際立たせるために余計な虚飾をなくすわけだ。最近は外国人観光客の間でも「ワビサビ」を気軽に口に出すようになったが、彼らがどこまで本質をわかっているのか定かではない。単に古くて質素なものを見てワビサビと呼んでいるのなら…、まぁそれでもいい。

侘び寂びの起源には諸説あって門外漢のボクが口を挟むのは差し出がましいのだが、ヨーロッパや中東、アジア各地の寺院や日本の神社仏閣の豪華な装飾と比べると、日本庭園の中にひっそりと佇む小さな茶室や灯篭などはしっとりとしていて心が落ち着くものだ。的外れな例えかもしれないがボクにとっては京都の鹿苑寺・金閣と慈照寺・銀閣を対比して見るような感覚である。銀閣は決して質素な建物ではないが、あらゆるところに金箔を貼り付けた金閣の姿はあまり心に平安をもたらすものではない。

華美は七難を隠す。少しくらい傷があっても雑な造りを誤魔化していてもその上から金箔やペンキを塗ってしまえばその中身は覆い尽くされて見えなくなってしまう。金箔や装飾を施すことも美しさの一つの表現には違いないし十分に魅力的だ。時としてその外側だけを見て中身に想いを至すことを忘れてしまう。

高いものはいいもの、誰も手に入れられないものはいいものという金満主義の風潮はその本質を見ることをせず「高ければいい」「羨ましがられればいい」という部分しか見ることができず、それらが持つ真の魅力を見逃してしまうことにもなりかねない。それでもいいという人もたくさんいるが、それを否定するつもりもない。塩ビでできた何十万円もするブランドのバッグを持って得意満面に南青山を歩くのもいいだろう。それで本人の心が満たされるのなら素敵なことだ。

ただボクはそれらを崇めて有り難がる趣味は持っていない。たぶんボクのような凡庸な人間にはその本質を一瞬で見抜くことができないからだろう。だからこそ装飾を排して本質だけを”見える化”した侘び寂びが身近に感じられるのかもしれない。

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