だんだん良くなる法華の太鼓

ダジャレといえば嫌われるオヤジ芸の一つだが、世の中でオヤジが嫌われる前から世の中には語呂合わせなどの言葉遊びはあった。例を挙げると「恐れ入り屋の鬼子母神(きしもじん)」(恐れ入るの”いりや”と東京都台東区の”入谷”を掛けているダジャレ)だったり「その手は桑名の焼き蛤」(将棋や囲碁などで相手の策略を見透かしている時などに使われ”その手は食わない”と三重県の”桑名(くわな)”を掛けているダジャレ、ちなみに三重県・桑名の古くからの名物は焼きハマグリ)などがある。これらはただの語呂合わせだがその裏には入谷に鬼子母神があることや桑名の名物が焼き蛤だということを知っていなくては面白くもなんともない。もっとも現在の入谷鬼子母神が下谷(旧入谷町内)にあるのはご愛嬌だ。

「驚き、桃の木、山椒の木」というのもある。これこそただの語呂合わせなのではないかと思う。桃の木も山椒の木もそこにあまり驚きは感じられない。友人のおじいちゃんによればこれには「…山椒の木、もひとつついでに〇〇の木」というのが付いていたと言うのだがもう40年ほども前のことでどうしても思い出せないでいる。(知ってる人がいたら教えてください)

ボクは法華経というものには馴染みがないのだが奈良時代に日本に伝来した仏教の経典であり日本でも長い歴史があるのだという。法華経に関係したところでは「だんだん良くなる法華の太鼓」というのがある。詳しいことは知らないが法華経を唱える時には歩きながら太鼓をドンドンと叩きながら唱えるのだといい、その太鼓が最初はヘタクソでも続けているうちにだんだんと上手くなってサマになる様子から右肩上がりの状況を比喩する時に使われたりする。ボクが最初にそれを聞いた時には「ドンドン良くなる…」と聞いたような気がしている。太鼓だからドンドンだよねと思ったのだがネットを検索してみると「だんだん」の方が圧倒的に支持されている。まぁどちらでもいい話だ。

ボクらが小学生の頃には学校で「アーメンそうめん冷やソーメン」というのが友達の間で流行っていた。ところがこれも元は「ごめんそうめん冷やそうめん」というダジャレだったらしい。これは今になって初めて聞いた。ボクらが子供の自分には最初から”アーメン”でありそれこそがオリジナルだと信じていたのだが”ごめん”こそが本家だったのだ。たぶんこれは友達同士で相手に謝る時にふざけて言っていたのだろうがどこから”アーメン”になったのか想像もつかない。

そもそも”アーメン”は謝罪の言葉なのか?相手への同意の意思を表すという説もあるがよくわからない。もしかしたら「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行けるという浄土宗の教えのようなものかもしれない。長いお経を覚えるのは大変なので短い言葉に集約されたように、長い祈りの言葉を覚えられないから神父様や牧師様が祈りの言葉を述べた後にみんなで「アーメン」ということでお祈りをしたのと同じ効果を得られるという説がもっともらしく聞こえる。

チベット仏教では「マニ車」というものがあってそれを一回まわせばお経を一回唱えたのと同じ功徳があるのだと聞いたことがある。尊い教えやありがたいお経も多くの人にとっては実行が難しいものであったりとても面倒くさいものだったりすると一般には広がりにくい。だから少しでも簡素化して簡単に実行できるように考えられたのだろう。

話が逸れた、”アーメン”の話だった。そういえばアレは友達などに謝らなければいけない時にも照れ臭くて「アーメンソーメンヒヤソーメン!」と吐き捨てて逃げていく時に言っていたような気もする。すると元は謝罪の時に使っていたと言えなくもない。アーメンは当時子供の間で話題になっていたキリスト教の風をいち早く取り入れた流行の最先端をいく言葉遊びではなかったのかとますます妄想が広がってゆくのだ。

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