言葉はウソをつくためにある

地方の特産品を紹介する番組にタレントが出てきて「うまーい!」「甘いっ!」「優しい味ぃ~」などと褒めちぎる様子は滑稽だという話を先日もここに書いた。口に入れたとたんに美味しいかどうかなど判らないし沢を流れる水が甘いわけがない。優しい味って何なんだ?まぁいい、そう言えと事務所やディレクターから指示されているんだろう。かくのごとく人が口にする言葉は白々しい。多くは思ってもいないウソである。いやそれが本来の言葉のありようなのだ。

かつてフランスの政治家・タレーランが「神が人間に言葉を与えたのは隠し事をするためだ」と言ったという話を書いたことがあるが、もう一歩踏み込んで考えれば「言葉はウソをつくためにある」と言えないことはない。もちろん「いいね!」と言って共感するために使うこともあるが共感するためには必ずしも言葉は必要ではない。しかしウソをつくためには言葉は必要条件である。

うがった見方をすれば誰かが「嬉しい!」と言ったらさして嬉しくもないということだ。嬉しいなら黙っているだけで伝わる。本当は大して嬉しくないのに相手に自分が喜んでいると思わせたいから口に出す。「悲しい」という時にもさして悲しくないのだし、「頭にきた!」といってもたかだか2〜3分の話だ。

人が口に出す言葉には何らかの意図があり打算がある。それを口に出すことで相手の心を動かしたり行動させようとする。単に自分の素直な気持ちなら敢えて口に出す必要はない。それだけではない何かを意図しているからこそ口に出す必要があるのだ。そこには何某かのウソが含まれているはずなのだ。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください