アタリマエ

アタリマエだと思っていることにはあまり興味が湧かない。それはそうだろう。自分が思っている想定内というより起きて当たり前のことにいちいち気がとられていたら煩わしくて仕方がない。蛇口をひねれば水が出たり冷蔵庫に入れておいたものが冷えているのはアタリマエのことだ。そんなことに驚く人はいない。しかし時としてそのアタリマエが当たり前ではなくなることがある。昨年の北海道胆振地震で起きた北海道全域でのブラックアウトや先日関東地方を襲った台風15号による大規模停電の被害である。北海道ではその大部分が3~4日で復旧したが今回の千葉県では5日経っても30万世帯以上が停電し断水したままである。

停電すれば当然明かりが点かない。冷蔵庫は止まりテレビは点かず携帯電話の充電もできない。それどころか水道のポンプを動かすのもガス給湯器の制御も電気がなければ使えなくなってしまうので事実上ライフラインは全滅する。

ずいぶん前に「北の国から」という北海道を舞台にしたドラマがあった。主人公の一家は森の奥で自給自足に近い暮らしを送っていたため町を襲った猛吹雪が電力線をズタズタにしてほとんどの家が寒さの凍える中、沢から水を引き、薪ストーブで暖を取り、自前の風力で暮らしていたその家には何の被害もなく朝を迎えたという話があった。今から40年前の話だが停電したのはどうやら実話だったらしい。

今ではさらに電化が進み、電気なしではその日の生活にも困難を極めるようになっている。しかし最近の実際の災害を見ると時として電気も”アタリマエではない”事態が起きているのだ。実際に我々の暮らしの中で電気を使っていないものがどれくらいあるだろうか。考えてみて欲しい。

以前の東日本大震災の時にも「計画停電」という前もってお知らせされた停電があった。その時、幸い鉄道は走っていたが駅を降りたとたんにすべてが真っ暗になっていて懐中電灯なしでは道も歩けなかったことにびっくりした。町の街灯だって電気があればこそである。そんなことに駅を降りて初めて気づいた。

明かりが点かず水道もガスも電話もネットも使えない生活にボクたちはどれくらい耐えられるのだろうか。いやどれくらい生きられるのだろうかといったほうがいいだろう。エアコンも扇風機も使えずコンビニだってスーパーだって店という店はすべて営業できないから食料品も飲料水も手に入らない。アタリマエがすべてアタリマエではなくなる。

当たり前のことをアタリマエだと思って見逃しているうちは想像力なんて身につかない。無くなってみて初めて呆然とするのだ。アタリマエだと思っていることに「なんで?」と思うところから発想は広がるのだと思う。なんで蛇口をひねると水が出るの?なんでスマホが使えるの?なんで喉が渇くの?なんでおなかが減るの?なんで?なんで?全ては「なぜ?」が始まりだ。

そんな命が切迫した事態でなくてもいい。「カルピスウォーター」や「お〜いお茶」(封建的なネーミング?)が店で売り出されたとき「そんなものをだれが買うのか」とバカにした。日本でミネラルウォーターが売り出された時にも「水に金を払うのか」と息巻いた人も多かった。そんなもの買うやついるか!と思うのがアタリマエだった。しかし時間が経つにつれてお茶や水は”買うもの”になり今ではペットボトルに入って普通に売られているし普通に買っている。買うことが当たり前になった。アタリマエを売っているのだ。

ジョーシキから解き放たれたものを生み出す力が想像力だ。アタリマエだと思うものがジョーシキである。こんな非常事態が起きているときに甚だ不謹慎ではあるが、こんな時にこそ今まで考えもしなかったアタリマエを見直してみるのはどうだろうか。

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