ハンコ

昭和の時代に勤めていた会社。当時は電子メールどころかパソコンもほとんど普及しておらず、業務の決裁は紙の稟議書で行っていた。さすがにワープロは導入されていたが、プリントした稟議書に押印欄を糊で貼り付けて回覧していた。

そんなある日、進めていたプロジェクトに問題が発生してかなりの額の損失が出た。善後策を話し合うために常務取締役をトップとした対策会議が開かれた。会議の席上、このプロジェクトを継続しても問題を解決できる目処が立たないためプロジェクト自体を中止しようということになった。
その時にある中間管理職が「そもそも誰が始めようと言い出したんだ!」と犯人探しを始めた。稟議書を書いたのは誰かということである。当然、稟議書自体を起稿したのは役職もないペーペーの平社員である。「そいつを呼んでこい!」と中間管理職氏が怒鳴った。いやいや、その稟議書には係長から課長、その中間管理職氏を含めた部長、役員までの印鑑が押されて決裁されている。印鑑を押した全員がそれを見て決済しているのである。最後の欄には常務取締役の印鑑まで…。
「恐れながら、これは皆さんが認めたということではないんですか?」と若い係長が発言した。するとそれまで黙っていた常務がぼそっと言った。

「これは認めたというハンコではない。見たというハンコだ」

しばらくして僕はこの会社を辞めた。