がまん強い東北人

サラリーマンだった頃、終わりのまったく見えない絶望的なプロジェクトに巻き込まれたことがある。毎日の作業と精神的なストレスに疲れ果てて、来る日も来る日も廃人のように過ごすようになっていた。寝られるのは3日に1度、食事も運が良ければ1日2回は食べるチャンスもあったが体が弱ってくると食べ物も喉を通らなくなってくる。常に精神はうつろで下痢も止まらなくなっていた。まだ40歳そこそこだったが”絶望”ってこういうことをいうのかなと思ったりもした。

ある日そんなプロジェクトの現場にいきなり送り込まれてきたのがコヤマ君だ。ボクらはプロジェクトの現場から数か月も会社に戻ることができず、残業時間は優に200時間/月を超えていた。徹夜が何日も続き、たまたま現場の様子を見に来た上司が「これはマズイ」と思ったのかどうかわからないが、山形のグループ会社に勤めていた彼を遊軍として送り込んだのだった。

コヤマくんは山形の地元出身のシステムエンジニア(SE)だった。それがある日突然、何の因果か縁もゆかりもない埼玉に行くように辞令が出た。もちろん友達どころか知り合いもいない。現場オフィスの近くに一人でアパートを借りて通い始めた。元々SEなので残業や徹夜には慣れている。現場では何を言われても文句ひとつ言わずに黙々と働いていた。仕事では決して有能ではなかったが、とにかく我慢し続ける姿には驚かされた。

それまでもプロジェクトには本社から体力の有り余っていそうな若手社員が何人も送り込まれていたのだが、2週間もたたないうちに「もう無理です」と言って来なくなってしまっていた。それがコヤマ君は2年もこの環境に耐え、ボクたちと最後まで頑張ってくれた。

プロジェクトが終わったときに主要なプロジェクトメンバー4人で近所のファミレスに行った。打ち上げというより”ご苦労さん会”の意味合いが強かった。その席で「よく最後まで頑張って耐えてくれたね、ありがとう」と言うと「だって帰るとこがありませんでしたから」と言った。リーダーが「また困ったときには助けてくれよ」と言うと「それはもう勘弁してください」と表情一つ変えずに答えた。その翌日、彼はひとり山形に帰っていった。

山形といえば朝ドラ「おしん」の故郷だ。雪深いところだが温泉や芋煮、蕎麦、米沢牛や納豆汁など魅力の多いところでもある。そんな山形から一人、見知らぬメンバーのためにはるばるやって来た。業務命令だから仕方なくやって来た。しかし他のメンバーがバタバタとダメになっていく中、彼は最後まで愚痴ひとつ言わずに(時々は言っていたが)最後まで耐え抜いた。そんな彼の背中を見て「やっぱり東北人は我慢強い」とひしひしと感じたのだった。

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