スクールはレジャーだ

スクールの語源はギリシャ語のスコレー(scholē・暇、ゆとり)だと言われている。どうして”暇”や”ゆとり”が学校になったのかはわからない。もしかしたら心にゆとりがなければ学問はできないということかもしれない。ギリシャ哲学はゆとりから生まれたのではないだろうか。

ゆとりとは時間的、精神的な余裕だ。それもただのボーッとした時間ではない。精神活動や自己充実のために充てることのできる積極的な時間のことをいう。そのゆとりの中で様々なことに想いを至らせた結果がソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの哲学者を生んだのだろう。

日々の暮らしにも余裕のない人には考えることはできない。考える前に食べなければならない。精神的にハングリーで好奇心旺盛なのはいいことだが、お腹が空いていてはそれどころではない。まずは最低限の生きるための環境を整えなければならない。

戦後日本は裕福になった。いまやほとんどの人は食うに困らずになんとか生きていかれている。それどころか飽食の時代とまで言われ、ボクを含めて生きていくために必要十分な食料以上のものを食べ散らかした挙句にダイエットに夢中になっている。明らかに食べすぎなのだ。おそらく人間や人間に飼われている家畜・ペットを除けば、これほどまでに食料に恵まれている野生動物はいないのではないだろうか。

スクールが余暇やゆとりだとすればそれは楽しいことである。なんでも好きなことのできる時間が与えられているからだ。それは一種のレジャーでもある。(スクール)≒(楽しいこと)≒(レジャー)というわけだ。しかしスクールに通っている子供や学生を見てもスクールがレジャー(楽しいこと)には見えない。大学生などはレジャーとしてサークル活動を楽しんでいるかもしれないが、サークル活動は果たしてスクールなのだろうか。

日本の平均的な子供のほとんどは「勉強が嫌い」で「宿題が嫌い」だ。考えることが苦手で暗記することも拷問のようである。つまりはスクールの周辺にある友達やサークルのような楽しいことにつられて嫌いな学校に縛り付けられているのではないだろうか。スクール自体はあまり楽しくなさそうだ。だから休講になったり自習時間になったりすると生徒たちは喜んでいる。

それは今の日本のスクールが受験勉強や就職試験にためにだけ存在しているからだ。正直なところ受験や就職などのためにした勉強など、終わってしまえばほとんどなんの役にも立たない。逆に自分が興味を持って面白いと思って学んだことがこれからの人生の中で役に立つ。だから中にはスクール自体が、考えることが大好きな人もいる。そんな人は時間の使い方と人生の楽しみ方がうまい。

興味を持って様々な知識を身につけ、それを糧にして多くのことを考えていくことが必ずや人生を豊かにする。何も知らず何も考えないでいることはその先の自分の人生に何も生み出さない。嫌々ながら覚えさせられた作家やその作品名、歴史の年号などなんの役にも立たないが、細かな年号よりも出来事の前後関係や歴史背景に思いを至すことで、今起きている社会現象の見方だって変わってくる。それが恐らく一番楽しいスクール(余暇)の過ごし方ではないだろうか。

しかしそれがわかるのはスクールを卒業して日々の生活にバタバタと忙しくなってからだ。できることならそんな楽しいスクールの過ごし方を、バタバタとして楽しめなくなった大人たちが最初に教えてくれるような場になってくれればと思うが、果たしてそんな日はやってくるのだろうか。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください