弱きをくじく

先日は判官贔屓(ほうがんびいき)のことを書いた。日本人の、つい弱い者に味方してしまう性格のことだ。しかし判官びいきとは逆に人は弱い者いじめも大好きだ。少し前から社会問題になっている”いじめ問題”も今になって始まったことではない。ボクらが子供の頃にも間違いなくあったし、恐らくそれ以前も同じだろう。何百年も前から人間の間で脈々と受け継がれてきた伝統(?)だ。

弱い者いじめはまず第一に安全だ。自分より弱い者をいじめても相手から反撃されることは少ない。わざわざ弱い相手を選んでいるのだから仮に反撃されたとしても組み伏せる事だってできる。自分が痛い目に遭う可能性は低い。それに相手を打ち負かすことで自分が優位に立っているという満足感も得られる。人は常に相手よりも優れていたいと思う生き物だ。

DVや子供の虐待などもその例だ。相手が逆らえないような人間関係の中で相手が嫌がるようなことをしたり暴力を振るったりする。先日行われた裁判で、父親の子供への性暴力について「拒否することができなかったとは言えない」とする判決を出した裁判長がいたが、それこそ人間関係のことを全く理解できていない不完全な大人だと言わざるを得ない。そんな人間が司法の場で権力を振るっているのかと思うとある種の恐怖を感じる。

ことは裁判なのだからあくまでも公正であるべきだし弱い者の味方をしろとは言わない。しかし事実をしっかりと見極めることのできないこんなにも不完全な人間が裁判官という司法の中枢にいるということは大きな問題だと思う。過去にどのような判例があったかということと現在との整合性を取ることは、ある程度必要なことだし意味のあることだ。だが過去の判例がどうあれ歴史は常に変わっている。50年前100年前とは人の暮らしも考え方も大きく変わった。そんな中で過去を引きずって今を見ることから目を背けてしまったら、希望ある未来を気付いていくことはできないのではないだろうか。

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