するべき、と言う人

「すべき」という言葉の意味は何なのだろう。それは「しなければならない」ともちょっと違うような気がするし、「やることが当然」という意味も含まれているように思う。辞書を開いてみると「べき」は元々「べし」らしい。そこで「べし」の項目を見てみると、「個々の主観を超えた理のあることを納得して下す判断であることを示す」と載っている。判断なのだ。それも単なる主観ではない、筋の通った納得できる判断であるという。正しいことだから当然するのが良いし、しなければならない。そこには多分に”命令”の意味合いも含まれているような気がする。

しかし「十人十色」という。容姿もさることながら考え方や思想信条も人それぞれに様々だ。”主観を超えた”というが、人が考えていることはそのほとんどが主観だ。すべからく客観的に考えられるのは神サマくらいだ。いや神サマだって、地球上には限りない宗教があることを垣間見れば、それはそれぞれの神サマの”主観”だということもできる。”主観を超える”ことは簡単ではない。

私たちが「すべき」という言葉を使うときには、自分の思想や考えに基づいて他の人に命令的に使うことが少なくない。「あなたは行くべきだ」と言った時には「行きなさい!」ほどではないものの「行ったほうがいいと強く思う」という自分の主観に基づいた判断をその人に示唆している。そこに何らかの理屈をつけたとしても、その理屈さえも自分の主観から作り上げられたものなのだ。

そう考えると”理のあることを納得して”といっても、結局は単なる押し付けになってはいないだろうか。自分の考えを正当化して押し付けているだけなのではないだろうか。それが証拠に、話す人によって”するべきこと”が異なっていることは日常茶飯事だ。
そんなに高尚な言葉なのだと知ると、これからはあだやおろそかには使えそうもない。よくよく思いを巡らせた上で、じっくりと考えて発言するべきだろう。

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