お葬式は誰のため?

最近は就活ならぬ「終活」が流行っているらしい。終活とという言葉を既にご存知の方も多いとは思うが要するに”人生を終わらせる準備活動”ということである。かつては「死んだら、ハイそれまでよ」という成り行きまかせのことが多かったが、最近では「子供や周囲の人に迷惑をかけたくない」という思いからか、遺産相続やお墓の準備から、写真館での遺影の撮影、葬儀社の手配、果ては自分のお葬式に呼んで欲しい人の名簿まで準備する人もいるらしい。

人が亡くなると「故人の遺志を尊重して」などという言葉がよく語られる。「故人の遺志により家族葬で…」「故人のたっての願いでお骨は海洋散骨で…」などなど、それは限りなく出てくる。自分を生んで育ててくれた両親、長年連れ添った夫や妻、時には不幸にも子供の方が短い人生を先に負えてしまうこともある。身近に暮らしていた人だからこそ未練もあるしその人の想いもわかる。だがボクは自分が死んだ後にその死体がどうなろうと葬式を出そうが出すまいが特に思うところはない。つまるところドーデモいいのである。

だから仕事で葬儀や埋葬についてのコラムを書いていた時は苦労した。自分の葬式や死んだ後の始末についてこれといった望みも理想もないのに、死んだ後のことについて世間のありきたりな感情におもねるようなお手盛り的な記事を書くことは、はっきり言って心苦しかったしつまらなかった。自分自身が興味のないことは何を書いても心が入らない。自分が書いた文章を読んでも面白くなかった。ボクはそれほど割り切れたプロではない。

最近になって若い頃に一緒になって遊びまわっていた友人の何人かがこの世を去った。40台50台での急逝でだったので悲しみの前に驚きの方が大きかった。仕事もようやく山を越え、定年を迎えてからゆっくりと逢って老後を楽しもうかという矢先の出来事だっただけに家族の方はもちろん、ボクらにとっても大きな喪失感があった。

ボクは死後の世界などは信じていないので死んだらそれでもうお終いだと思っているし、ボクが死んだあとその死体がどうなろうと葬式がどうなろうと関係ないと思っている。しかし、さすがにその時だけは「アイツらが先にあの世に行っててくれるなら、オレが後からあの世の宴会場の扉を開いた時、会場内に誰も知り合いがいないといういたたまれなさは感じないで済むかもしれない」などと考えて、アイツらが先に逝った虚しさを別のものにすり替えようとしたりもした。

しかし自分の死後のことには全く興味がない。先日Eテレの「ヨーコさんの”言葉”」という番組でこんな言葉を耳にした。絵本作家の佐野洋子さんのエッセイの言葉を朗読する番組だ。

「私は死ぬのは平気だけど、親しい好きな友達には絶対死んで欲しくない」

しみじみと心に響いた。そうなのだ、自分が死ぬのは自分のことだし仕方がないと諦められるが、好きな友達が死んでしまったら自分だけ生き残って悲しまなければいけないのだ。親しい友人を亡くして初めて解った感情だった。自分の死や死後のことについては興味もないが、他の人に死について残されて生きている人間はいろいろと考えさせられる。

お葬式は残された人の気持ちの満足のためにやるものだと思う。故人の遺志はとりあえずどうでもいい。残された人が故人との最期の別れをして気持ちの整理をつけるためのものだ。そこにはどうあがいても故人が口をさしはさむことはできない。もう死んでいるのだから。しかしそれでいいのだ。残された人間が満足するならそれでいいのだ。好きにやればいいと思う。死んだ本人にはあの世で謝ればいい。

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