『戦争を知らない子供たち』の頃

子供の頃「『いちご白書』をもう一度」というフォークソングが学校で配られた「歌の本」に載っていた。「いちご白書」とは映画の題名らしいのだが、ボクはいちご白書を観たことがない。当時はフォークソングが流行っていた時代でそこかしこの集会などでフォークギターを掻き鳴らして歌う学生も多かった(らしい)。ボクが住んでいた田舎の町では想像もできなかったがテレビでは連日、安保闘争のデモの様子が大きく報道され、国会周辺や新宿辺りでは学生運動がピークを迎え、大通りでも火炎瓶や鉄パイプで向かってくるデモ隊とそれを蹴散らす機動隊の放水、東大安田講堂の攻防などが熱を帯びていた。
ボクはまだ小学校の低学年だったので学生運動とは無縁の年頃だったが、今にして思えばテレビに映し出される当時の学生運動は良くも悪くもアナーキーだった。もはや今の日本ではまずありえないような光景が日常だった時代である。

今の小学生たちのことはよくわからないが、あの頃の学校では盛んに合唱が行われていた。いやボクが合唱団に入っていたからそう思っているだけかもしれない。しかし小中学校では卒業式や入学式、始業式、終業式、運動会など事あるごとに合唱の練習をした覚えがある。その時に活躍するのがその「歌の本」だった。特に中学校に入ると学校の先生たちの推薦で「戦争を知らない子供たち」という歌が盛んに歌われた。今となっては誰の歌なのかもわからない。それでも何度も練習しては歌ったので何となく今でも覚えている。歌の最後の歌詞に♪戦争を知らない、子供たちさぁ~♪という部分があるのだが、何となくここの「さぁ~」のところが不自然に感じられて嫌だった。いったい誰に呼びかけているんだろうなどと思ったりした。

歌の内容は、僕らは戦争が終わってから生まれてきたから戦争のことなど知らないで育った、でも僕らは平和の歌を歌い続けるといったような歌詞だったが、当時から「だから何なんだ」という気持ちもあった。いや戦争が良くないことは分かっている。日本でも自分たちの肉親を含めて途方もない数の人たちが無念のうちに死んでいった。戦後25年、そんな話はいつも聞かされていた。日教組の方針もあって強引にも感じられるほどの平和教育が行われていた。日本国憲法も暗記させられた。日本はもう戦争を絶対にしない国になったんだと先生から何度も言われた。それは決して悪いことではないと今でも思っている。

しかし、しかしだ。ボクたちは歌にある通り”戦争を知らない子供”なのだ。いやそれを言うならボクらの親の世代だって戦中戦後にはまだ二十歳にもなっていない子供だったはずだ。しかしその世代に人たちは直接戦争に行って戦うことはなくても、毎日のように空襲に曝されて家を焼かれ、田舎に疎開をして何とか生き残った人たちだ。一方でボクたちは日本が十分平和になって独立し、復興してから生まれて育ってきた。実感としての戦争体験はまったくない。だからこそそんな歌ができたのかもしれない。

戦争中は恐らく今の状況と比べれば自由などなかったのだろう。生活のほとんどが規則で縛られていたのかもしれない。その名残がボクらの時代の”校則”や”常識”として残されていた。「男のくせに髪の毛を伸ばしやがって」「女のくせにズボンなんか穿きやがって」とは普通に言われることだった。歌詞の中では「髪の毛が長いと許されないなら」と歌っている。今でも学校の校則には髪型の規則はあるのだろうか、スカート丈の規則はあるのだろうか。戦争への反動もあって「自由」がことさら叫ばれた時代だった。フォーク歌手たちは男も女も髪の毛を伸ばし、パンタロンを穿いた。それがまだ十分に自由のない時代に反抗する一つのアイコンだった。今の時代の自由ってなんだろう。

戦争と同じように、大災害があっても自分が直接体験したことでなければやがて忘れていく。辛かったことも不自由だったこともやがて忘れていく。それが人間だ。戦争が、災害が一段落してしばらく経つと「あの辛かった現実を風化させないために」という声があちこちから上がる。日本人は74年前に酷い戦争を体験した。しかしその体験を身をもって覚えている人たちはだんだんと少なくなっている。神戸の大地震、東北や新潟・熊本・北海道の大地震、九州・広島・岡山・四国での大水害。時間が経てば”戦後生まれ”の方が多くなる。辛い思いは自分が身をもって体験するまで自分のものにはならないのだろうか。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください