ヌードとポルノ

最近少し絵を描いている。絵といっても簡単なスケッチ程度だし、描いているといっても人様にお見せできるようなシロモノではない。描くものはいろいろだ。風景のスケッチをしてみたり、自画像を描いてみたり、静物を写生してみたり、自分の左手を描いてみたり、気に入った絵を模写してみたりしている。先日読んだ本に書いてあったことで目から鱗が落ちたような気がして、空いた時間があれば5分でも10分でも描いている。今では絵を描くのも文章を書くのもどちらも楽しい。いや楽しいというのとはちょっと違うような気がするが、どちらも前向きに取り組めるような気がしている。

最初に人を描こうとするとどうしても手脚の長さ、顔の大きさなどが不自然になる。何というかバランスが悪い。ちょっと見ても”どことなく変”なのだ。左右のバランスが悪かったりすればどこを直せばいいのかが分かるが、”何となくどこかがおかしい”と思ってもどこがおかしいのかわからない。たぶんそれは絵心がないからなのだろうとずっと思っていた。”その本”には「まずは見たままを描きなさい」と書いてあった。見たままとはどういうことなのか。たぶんこれが中学の大嫌いだった美術の先生が言っていた「ちゃんと見ろ」ということなのだ。

ちゃんと見ろって言われたって、ボクは最初からちゃんと見ている、と思っていた。先生は”何をどのように”ちゃんと見ればいいのかをボクに伝えなかった。その本を読んで”落ちた鱗”には「この線は垂直からどれくらい傾いているのか」「水平からどれくらい傾いているのか」「その線はどれくらいの長さなのか」「この線とあの線の長さはどれくらいの比率なのか」「同じ長さなのか」「1.5倍なのか」「この線の始まりとあの線の始まりは同じ高さなのか」などを”ちゃんと見る”ことがまず最初に必要だと書いてあった。そのことを意識してスケッチしてみると絵は驚くほどリアリティを持つようになった。奥行とか遠近法とかそういうことではない。長さと角度とカーブの具合をよく見て平面にそのままに描けば出来上がったものには自然に遠近感が出るのだ。

しかしそれとは別にもう一つのやり方もあった。例えば人の顔。以前のボクは人の顔を描こうとすると縦長の楕円形の上から1/3くらいのところに目を描くことから始めていた。しかし人の顔をちゃんと見ると、目は顔の真ん中にあるのだ。頭のてっぺんから下顎の先までを繋いだ線のちょうど中央に2つの目が横に並んで付いていた。ちゃんと見ることでやがてそのことが分かるのだが、人の顔のアウトラインを描こうとしたときにはそのことを知っていた方が描きやすい。左右の目と目の間隔はおおよそ目の大きさに等しいし、その幅が小鼻を含んだ花の幅と同じだ。つまり内側の目尻から真下に線を引けば小鼻の位置になるわけだ。横から見れば目の高さは耳(耳たぶではない)の上端と同じであり、耳の前端は頭の中央に重なる。しかも鼻の大きさは耳の大きさとほぼ同じだ。だからといって描くものをちゃんと見なくていい言い訳にはならない。

目や鼻、口や耳の付いている位置は頭蓋骨と密接に結びついている。なぜならそれぞれの位置には頭蓋骨に穴が開いているからだ。目が付いているところの頭蓋骨は窪んでおり耳や鼻のところには穴が開いている。そして人の頭蓋骨は誰のものでもほとんど同じだ。だから人の顔はみんな自然と人の顔に見えるのだ。間違っても犬やパンダの顔に見えることはほとんどない。

他の骨格も同じようなものである。もちろん足の長いカッコいい男性もいればボクのような短足もいる。ガニ股もいればO脚の人もいる。でも言うほど骨格自体はあまり変わらない。人の顔にそれぞれ違いがあって違いを認識できるように、体格にも違いはある。人間の体形は魚や鳥のそれとは明らかに違うし四足歩行の哺乳類とも違っている。しかし人を見れば誰でも「人間だ」とわかるほどに似ている。だから人の絵を描こうとした時には人の骨格や筋肉の付き方を知ることがとても参考になる。

人体の骨格の構造を知ると不思議なことに体のバランスや向き、傾きが不自然になってしまうことが少なくなった。手首は座骨の上端とほぼ同じ位置だし、肩から肘までと肘から手首までの骨の長さは3:2ほどの割合である。もちろん手首から先には手の平や指が付いているので普段のイメージでは肘から先の方が長いように感じてしまう。しかし実際に”よく見て”みるとそのバランスは当たり前だが骨のそれと同じなのだ。

そんなことが分かってくると「こんなポーズをしている人」を想像で描いても不思議とバランスは悪くない。考えてみれば人の身体は骨があって、その上に筋肉があって、それを覆うように皮膚がある。その上に服を着て生活しているのだから人間の基本的なDNAによって作られた骨や筋肉の形が分かれば”普通の人”の絵は描けるようになるのだ。その理屈が分かっていれば人を描いてもそうそう不自然にはならないのだということが分かってきた。

高校生の頃、美術部の部員たちが美術室に置いてあった裸体の彫刻の像をデッサンしていた訳がやっと少し分かった。服を着ている人を描くにも、そもそもは骨であり筋肉であり皮膚なのだ。服はそれを覆っているに過ぎない。だから画家が服を脱ぎ去った人間のヌードを描くわけがやっと理解できた。何事も基本がわからなければその先はないのだということなのだ。

健全にいやらしかった高校生のボクの頭には、ヌードが「むき出しの」という意味だとも知らずに「ヌード=ポルノ」だとしっかりと刷り込まれていた。今となってはヌードにもポルノにも失礼なことだったと反省している。いやあまり反省もしていない。

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