ドラムのお稽古

初めてドラムスを叩いたのは高校1年生の時だった。中学生の頃からフォークギターを触っていたが高校生になってクラスメイトとバンドを組もうということになり、ボクはドラムスの担当ではなかったのだが何だかカッコ良さそうだったので少しくらいは叩けるようになったら楽しいだろうと思って練習を始めたのだった。もっとも実家の隣の家の高校3年生の美人のお姉さんが家でドラムスの練習をしていてその音を毎日のように聞いていた影響がなかったと言えばウソになる。

皆さんもご存知だと思うがドラムスには基本となるリズムがある。2ビート、4ビート、8ビート、16ビートなどが有名なところだ。簡単に言えば2拍子、4拍子、8拍子、16拍子である。8ビートは1小節を8等分した8分音符で拍子を刻むアップテンポのリズムになる。ロックやポップスでも一般的なテンポになる。で最初は8ビートから練習することにした。しかしドラムセットなんて生まれてこのかた一度も触ったことがない。最初は誰でも初体験だ。2度目から始めることはできない。スティックを握るのも小学校の鼓笛隊以来である。

ドラムセットの前に座ってスネアドラム(いわゆる小太鼓)、ハイハットシンバル(左足を使って開閉する仕掛けの2枚1組のシンバル)、バスドラムを右足で叩くためのペダル、タムタム(音程の違う中太鼓たち)、シンバル類をセットする。しかし基本のリズムで使うのはハイハット、スネア、バスドラだけだ。しかもハイハットは常に閉じっぱなしにして叩くので左足はハイハットのペダルを踏みっぱなしにしておく。1拍目と5、6拍目に右足でバスドラをペダルを使って鳴らし、右手を使ってスティックでハイハットのリズムを8分音符で連続して叩き3拍目と7拍目に左手でスネアを叩く。以前からドラムを叩いていた友人によれば「最初は戸惑うが慣れれば簡単」なのだという。それにしても手足をバラバラにかつ規則的に動かすのは驚異的に難しい。頭の中は大混乱だ。

そこで提案されたのはハイハット、スネア、バスドラのそれぞれのパートを個別に練習しておいて、あとで全部を組み合わせる方法だ。初心者はそのほうが簡単に身につくという。そこでまずは右足のバスドラだけ「ドッ、ドド」、右手のハイハットだけ「チャチャチャチャ チャチャチャチャ 」、左手のスネアだけを「(ウン)タン(ウン)タン」と練習してみた。これは簡単だ。誰にだってできる。そこで今度は3つを同時にやってみた。途端に頭は大爆発してうまくいかなくなった。それぞれが別のパートに釣られてしまうのだ。「不器用な人間ですから…」

「ダメだなこりゃ」とあっさり友人から見捨てられたボクは仕方なく一人ぼっちで3本の手足をゆっくりと動かして完成形のリズムを超スローで叩いてみることにした。とてもゆっくりだが全体の構成は出来上がった。「なんとかなる!」とかすかに希望を持ったボクは次第に叩くスピードを上げてみた。「そうそう、このリズムだ!」とビートを体で感じられるようになるともう手足がバラバラになって混乱することはない。ここまで約10分。ボクはようやくドラマーになった。

その後は16ビートやツービート(お笑いコンビではない)にも挑戦したがここからは「太鼓をちゃんと叩く」という基本的な練習をよほど重ねないと応用はできないということに気づき、今でも「ドラム叩けます」と大見得を切ることはあるが実は8ビートのリズムが刻めるだけというお寒いレベルである。

この経験を通して思ったのは何かに挑戦しようとするときには「アプローチする方法は一つではない」ということだ。特に楽器を演奏しようとするときには左右の手足を連携させながらバラバラに動かしたりすることが多い。スポーツでも同じことが言える。体の全部を使って何かをやろうとするときには”学ぶ”のではなく”慣れろ”と言われるが、まさにボクはドラムスを通してそのことを理解した。

どんなやり方が自分に合っているのかは実際にやって試してみるまでわからないが、間違いなく言えるのは「やり方は一つではない」ということだ。理論的に考えることが得意な人はそれぞれを個別にやってから組み合わせるのが得意なのかもしれないし直感的に行動することが多い人は全部を同時にゆっくりとやってできるようになってから次第に早くやることが向いているのかもしれない。もっともこれはボクがそう思っているだけで何の根拠もない。

日本の教育はほとんどの科目が論理的に言語的認知を訓練することが目的である。それは数学でも国語でも英語でも社会でも同じだ。一般的に”勉強する”ということは言語的な脳の活動を鍛えることを目的としている。しかし人間には絵やデザインを見て「センスいいねぇ」などと感じる能力もある。これには音楽や美術のように芸術的な要素が多いのかもしれないが、その”センスの良さ”を理屈で説明することは難しい。そのほとんどは個人的な好みだったりするからだ。だから芸術的な能力をテストで測ることは困難だ。しかしいいものはいいのだ。

日本人は子供の頃からテスト第一主義のなかで教育を受けている。だから多くの人は何事も論理的に考えようとするしそれが唯一の正しい方法だと思っている。問題の答えが常に一つだけだと思うのもそのせいではないだろうか。

芸術家には一般社会からはみ出したいわゆるアウトローが多い。しかしそこでいう”一般社会”とは理屈だけを正義とした偏った社会であって、それ以外の部分には理屈で説明できない広い世界が広がっているのではないかとしみじみと感じている今日この頃だ。

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