ロボコン0点

昔、テレビで「ロボコン」という子供番組をやっていた。ロボコップではなく「ロボコン」である。細かいところは覚えていないが、どこかの研究所で開発されたロボットたちが人間の子供たちと関わり合いながらロボット小学校で学んでいくというような話だったと思う。先生も生徒もすべてがロボット。1週間に1度だけ全員が学校に集まってそれぞれの生徒の1週間の生活や人間の子供たちと一緒に頑張ってきたことを先生が採点するというような内容だ。ロボコンのキャラクターはドラえもんでいえば”のび太”の役どころ。ドジでのろまで単純なロボット学校の劣等生だ。

主人公のロボコンはとある小学生の家に転がり込んでそこの一家と同居生活を始める。もちろんロボットは小学生の通う学校に行く必要はないので昼間はご近所の住人たちと交流したりして自分が”いいこと”だと思ったことを積極的にやってロボット学校でいい成績をとろうとする。老人ホームでお年寄りの相手をしたりいじめられている小さな子供を助けたり、道に迷っている子犬を助けて交番に連れて行ったりする。ロボコンはすべていいことをやっているつもりなのだが思いがけない展開が裏目に出て大失敗してしまう。当然、週末のロボット学校の成績発表では「ロボコンっ0点!」となって「先生なんでだよぉ、みんなのためになるように頑張ったのにぃ」と文句を言うのだが先生は「お前がいいことをやろうとした気持ちは正しい。しかし人は単純にロボットが手助けすればいいというものではない」などとロボコンを諭す。人間の代わりにロボットが何でもやってしまったら人間はダメになってしまう、というようなことを言うのだ。

それは今の社会でも、いや今の社会ではますます現実的なものになっている。家電製品にしても冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどもボタン一つで最適な”おまかせ設定”ができるようになっている。もはや人間は何も考える必要はない。ロボコンが全部やってくれるのだ。同じようなストーリー展開はドラえもんでも見られる。ダメ小学生で主人公ののび太はあらゆる困りごとでドラえもんを頼り、すべてをドラえもんの秘密道具で解決しようとする。ドラえもんは、このままではのび太がロクでもない大人になってしまうことを心配して時々は「自分で考えなさい。ボクは知らないからね」と突き放すのだが、のび太は卑怯な手を使ってでもドラえもんに秘密道具を出させてしまう。結局は秘密道具を間違って使ってしまって痛い目に遭うというストーリーだ。

深く考えることをしないで目の前にある情報だけで短絡的に判断して行動してしまうことは誰にでもある。しかし直ちにそれをやってしまった時にどのような結果をもたらすのかの可能性を考えない。教科書にあるような「AをやればBという答えになります」という1対1の原因と結果がすべてだと思ってしまう。我々が実際に暮らしている社会では一つの行動がいろいろな結果をもたらすことを毎日見ているのにだ。勉強すれば頭が良くなる、運動すればスポーツが上手くなる、歌が上手ければ歌手になれる、高校野球で甲子園に行けばプロ野球選手になれるなどの固定概念だ。

実際に甲子園に行った高校球児のうちプロ野球選手にまでなった人などほんの一握りに過ぎない。ほとんどの高校球児は卒業後に野球との関りを持つことさえなく普通の大人になる。運動神経の良かった子供がすべてアスリートになるわけではない。のど自慢で優勝した人がみんな歌手になるわけではない。資格を取れば必ず仕事にありつけるわけではない。一つのことが将来を約束してくれることなどないのだ。それどころか良かれと思って努力したことが裏目に出る事さえある。ロボコンと同じように良かれと思ってやったことが裏目に出て0点。時にはマイナス100点などという最悪の結果になることもある。

ロボコンがやったことや生き方について先生が最後に点数をつけるというのは学校で先生たちがやりたがらない”道徳教育”や”人生の道を説く”ということだ。今の学校では”学ぶこと”ではなく”点数を付けて生徒の序列を決めること”が目的になってしまっている。一方で道徳はそれぞれの価値観によっていろいろな見方ができる。それに一概に点数を付けることはできないから先生たちはテストを作りにくい道徳教育を苦手にしている。ロボコンだっていつも失敗して0点を取っているのではなく、たまには先生に褒められて100点を取ることもある。でもロボコンはなぜ100点だったのかを考えることをせずに100点だという結果だけに大喜びするのだ。

いろいろな価値観があって数学のように答えが一つに決まるようなものばかりではない。いや数学でさえ最終的には見方によってさまざまな解釈が必要になる。高校生の頃、数学が大好きで大学の数学科に進んだらその中身はほとんど哲学のようなものだったという話を聞いたことがある。学生の頃には、高校生の数学のような勉強がしたいなら大学の物理学科へ、高校の物理が好きなら化学科へ、化学が好きなら生物学科へ行けと言われていた。このことにしてもそんなに単純な話ではないのだが、世の中は答えが一つに決まることなどまずないのだということは誰もが経験しているはずなのに、なぜ子供や生徒には答えが一つしかないようなテストの勉強ばかりをさせるのだろう。

すべてがボタン一つで解決するような世界になることはある意味で人類の理想かもしれない。しかしそんな世の中が実現した時に、人間は考える楽しさを忘れてしまうのかもしれない。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください