老いの姿

役者さんはいろいろな立場の人を演じる。”演じる”ということは”真似る”ことにも似ている。似ているが、ただ姿や動きを真似してもそのようなものには見えないのだという。本物よりも本物らしく見せることが役者魂なのだという。本物より本物らしくとはどういうことなのだろう。外面から見えない何かが見ている人の心に訴えかけてくるとでもいうのだろうか。演劇でも映画でもドラマでも見るのは普通の人だ。演劇のことに詳しい人ばかりとは限らない。いやほとんどの人はシロウトのはずだ。そんな人が見た時に”本物よりも本物っぽい”と感じさせるために外観以上に何が必要なのだろう。

例えば役者が、老人の老いを描こうとすればただの老いぼれた姿になってしまうが実際の老人はただ老いているだけではないのだという。人は誰でも歳をとれば老いていく。老いて弱ってやがて死んでいく。今までの人類の歴史の中で死ななかった人は一人もいない。自分が老いて弱っていく姿を自分で見ていることはある意味でやるせないことだ。そのあり様は自分が死に向かって一歩一歩進んでいることに他ならない。やがて間違いなくやってくる死に向かって着実に歩みを進めていることの確かなな証拠だ。誰が何と言おうとやがて死はやってくるのだから避けることはできない。しかし死ぬことは決まっていても、その過程で老いて衰弱して醜くなっていく自分の姿を見せつけられることが耐え難いのだ。

本当の老いとは自分が老いに抗おうとして苦闘する姿なのだという。死にたくはないが避けられない。ならばせめて醜い姿を見ることは避けられないだろうか。そこで自分の老いた姿を何とか隠そうと突っ張る姿こそが老いの本質なのだという。「まだまだ若いもんには負けん」とか「最近の若い奴らは」などと言って憚らないのは、言ってみれば若さへの嫉妬だ。自分がすでに無くしてしまった輝くような若さを謳歌している若者への嫉妬以外には考えられない。その上自分には無くしてしまった若さの代わりに老いの醜さが忍び寄ってくる。何とかこれだけは若者に悟られたくない。だから男も女も後先を考えずに隠そうとする。それが老いた人間を演じる秘訣なのだという。つまり”演じる”ということはその人間の内面にあるものがにじみ出るように描き出そうとすることなのではないだろうか。

マーケティングにも似たような側面がある。何を欲しがっているのかを外側から売ろうとしている人間が見ても何も見えない。何かを欲しがっている人が欲しいものの実体はもしかしたら若さのようなものなのかもしれない。しかし外側から見ている人には”若さ”そのものではなく、失ってしまった毛髪だったり衰えてしまった体力や筋肉だったり弛んで乾燥してしまった皮膚を欲しがっているだけに見えるかもしれない。それらを再び手に入れることができれば幸せにすることができると思っているのかもしれない。しかし本当に欲しいものは外見などではなく”若さ”なのだ。頭が禿げてしまった人がみんな老人に見えるわけではない。禿げていても心に弾力と活気のある人はいくらでもいる。逆にそんな人は”見せかけの若さ”を欲しがって見苦しい姿を見せることはない。自分の姿に納得していればあえて若さを手に入れる必要などないからだ。

マーケティングでは、欲しがっている人や何も思ってないように見える人が発する何気ない言葉に耳を傾けることが肝心だ。その裏で本人が悩んでいることの本質が分からなければうわべだけを飾って満足させるような方法しか思いつかない。家を持てば幸せなのか、車を買えば幸せなのか、家族を持てば幸せなのか、子供がいい学校に入れば幸せなのか、お金持ちになれば幸せなのか。そのことでつかのまの幸せを掴んだ気持になる人もいるだろう。しかしその興奮が冷めればまた次に欲しいものが現れる。それを手に入れてまたつかの間の幸せを手に入れる。そんなことを繰り返してゆっくりとしかし確実に老いていく。幸せの本質に気づいた時、本当に欲しかったものはそんなものではないことに気づく。

幸せってなんだっけ♪

それでも自分が幸せだと思うならそれだけで十分なのかもしれない。

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