毒舌

手厳しい皮肉や悪口のことを「毒舌」という。ボクは時々毒舌だと言われることがあるがボクは決して毒舌ではない。本当だと思うことを言っているだけだ。そしてそれは多くの場合に本当である。みんなはどういう訳かなかなか言わないのでボクがその心の中を代弁しているだけである。遠慮しているのだろうか。だとしたら何に遠慮しているのだろう。本当のことを言った時に相手が怒るのではないかという不安だろうか。しかし本当のことを指摘されて怒るのは器量の狭い人か自分に自信のない人だ。ボクは遠慮なんかしないでそれを言っているだけだ。忖度などしない。

遠慮してもいいことなど一つもない。ボクもたまには聴衆のウケを狙って多少のウソをまぶして話を盛ることがないわけではないが、それは揺るぎない事実の延長線上にわずかなフィクションがあるだけで悪気はない(と思っている)。相手に遠慮して真実を捻じ曲げたり言わなかったりすれば相手に自分に真意が伝わることはない。ビジネスの世界では得意先や上司の気持ちを慮って大切なことさえ言わないことが配慮に満ちたビジネスマナーだと言われることがあるがそれは完全な間違えだ。”相手が怒るかもしれないから”と事実を言わなければ相手にとって自分がどう見られているのかを知ることができないということになる。それは「裸の王様」と同じだ。

自分がどう見られているのかを知らないということはある意味で悲劇でもある。別に常に他人の目を気にして生きろということではない。他人から見た時の自分の欠点は知っておいた方がいいということだ。それを直すべきか自分の個性として尊重するかはそれぞれの個人の自由だ。いつも他人の意見に流されて生きる必要はない。ただ他人が自分の欠点について感じたり思ったりしていることを全く知らなければ、相手が自分に対して言っていることの真意を掴み切れないことはあるだろう。それが誤解となって自分がなすべき行動を取れないのであれば自分にとって不利になることもある。

毒舌にも三分の理という言葉があるように(そんな言葉はないけれど)相手に他人の目に映っているその人の姿を鏡のように見せてあげることは言い方を変えれば「親切」である。客観的な視点から自分の姿を垣間見ることはなかなかできない。自分が生きているときはその場を生きているのだし死んでしまえば死んでいるのだから。

脚本家の倉本聰氏はそのエッセイの中で「天井裏から自分の葬式を覗き見るのが夢だ」と書いている。生前の自分が周囲からどのように思われていたのか、きっと来てくれると思っていた人が来なくて意外な人がお線香をあげてくれたりするかもしれない。仲がいい信頼できると思っていた友人が悪口を言っていたり、誰かがしめしめと思って舌を出していたり、意外な人が涙を流してくれたりするかもしれない。しかし自分はもう死んでいるから彼らに対して口出しすることは一切できない。その様子を天井裏からそっと見届けて「そうだったのか」と納得してから成仏したいというのだ。

その気持ちは何となくわかる。別に他人にどう思われようとそれで自分の生き方を変えようとは思わないけれど、自分が生きてきた結果を他人がどう思っていたのかを最後に知って納得して旅立ちたいという気持ちは理解できる。別に何もわからないまま死んでしまっても”あとは野となれ”なのでどうでもいいと言えばそれまでだが、せっかく勉強して試験を受けたのに合格発表を見に行かないというのもつまらない。この場合、合否は大したことではないしそもそも”合格って何だ?”ということでもあるのだが、世間一般から見て自分が面白い人生を歩んできたのかには多少の興味がある。

そういう意味でも毒舌は言う方にも聞かされる方にも、自分の人生を考える上である程度の指針になるんではないかと思うのだ。

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