自動運転車

自動運転の技術は日進月歩で、来年あたりには国内でも実用化が始まるという。もっとも大規模に自動運転車が普及するには何年もかかるだろうが、世間で話題になるようになってからの海外の技術進化には目を見張るものがある。日本メーカーの状況はなかなか耳にする機会が少ないが、高度成長期の電化製品などのように海外の技術をいち早く取り込んで日本の環境に適合するように改良していく形で進歩していくのかもしれない。

古くから日本では普通の車のことを「自動車」と呼んできたが「ここにタッチしてください」と書かれた自動ドアと同じように”自動”ではない。人間が操縦してエンジンやモーターで動いているだけだ。だからこれから普及してくるだろう自動運転車が本当の意味での「自動車」になるのだろう。今のところはハンドルもあってシフトレバーやウインカー、ワイパーなどの電装品のスイッチ類も付いた”運転席”があるが、最終的には運転席などない「動く部屋」のような形になるのかもしれない。

最後に問題になるのは人間と機械の関係性だろう。自動運転車などの機械同士は通信することでお互いの”意思”を確認しあって動きを制御することが可能だが、人は裸になってしまえばそれ自体で機械との通信機能を持っていない。つまり人間や動物などの生き物だけが機械の”意思”を知ることができない。機械側から見れば「生き物は急に何をするかわからないから怖い」ということになってしまう。つまり”人間さえいなければ”安全な社会が出来上がるわけだ。

それを実現するための一番単純な方法が、我々がかつて夢見ていた人が歩いていない”透明チューブ”の中を自動運転の車だけが走る未来世界だ。車と人間を完全に分離すれば”安全”になるのだ。それは機械と人間のコミニュケーションを否定していることになるのだろうか。機械同士なら意思の疎通が完全にできて安全安心だが人間が加わった途端に意思が伝わらなくなって安全ではなくなる。

人は予想できないことをするから危険なのだとするとそれを逆手に取って、これからのAI時代の人間の役割は故意に予測できないことをやってそれを社会に役立てるような”何か”になるのだろうか。不完全な意思疎通から事故を起こすというのは”お笑い”のボケにも似ている。相方が話していることを勘違いして受取って誤解したまま間違った方向に突っ走り始めることでお笑いは成り立っている。他にもそんな役立て方が見つかればイノベーションだろう。それが何なのか今のボクには想像できないが、そんなことを考えながら生きていくのも面白いかもしれない。

それにしても人はなぜ車や乗り物を使ってまで遠くに行こうとするのだろうか。近い将来に、嫌々ながら仕事で毎日通勤することがなくなったとしても人はどこかに何かを求めて移動することをやめないのではないだろうか。アフリカ大陸でホモ・サピエンスが誕生してからずっと移動を続け、人類は地球上のほぼすべての場所に広がった。ほぼすべての場所に住むようになった人類は今になってもあてどなく宇宙や海底深くまで行こうとしている。そこには通わなければならない職場や学校があるわけでもないのに移動をやめないのだ。これも人間のDNAに埋め込まれた一つの本能なのかもしれない。ボクたちはいったいどこに向かって行こうとしているのだろうか。予測もつかない未来の世界に向かって歩いていくのだろうか。予測できない人間の本能のままに。

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