誇張が過ぎるんじゃありませんか?

20年ほども前のこと、ボクは沖縄の那覇から船で1時間半ほどのところにある慶良間(けらま)という離島を初めて訪れた。季節は11月、季節外れの台風でフェリーのダイヤは乱れ、空はどんよりと雲に覆われたお世辞にも爽やかとはいい難い天気だった。那覇の港を出てからやや荒れた海況の中をフェリーで1時間ほども走るとやがて慶良間諸島の一つである阿嘉島(あかじま)という小さな島の港が見えてきた。船のデッキに出て海や島々を眺めるとそこにはボクが想像もしていなかったエメラルドグリーンの海が目の前に現れた。どんよりと曇った11月の空の下である。驚くほど鮮やかなそんな海をボクは見たことがなかった。それがボクと沖縄との出会いだ。

またある時には秋の上高地の紅葉に出会った。上高地の紅葉はまだ学生だった頃、たまたま車で通りかかった時に遭遇した。それは周りの山々が燃えるように真っ赤に色づき、それは得も言われぬ鮮やかさで迫ってきた。正確には長野県の松本から上高地に向かう細い山奥の国道から見た風景だ。あの時の光景も忘れることはできない。北アルプスの麓の紅葉というものがこれほど鮮やかなものだとは思っていなかったからだ。

砂漠に逆巻くオーストラリアやサハラ砂漠の砂嵐、アラスカの夜空を怪しく彩るオーロラ。砂嵐やオーロラはまだ見たことがないがテレビ番組などの映像では紹介されることが多い。先に触れた南の海や美しい紅葉が紹介されることも多い。そんな映像を見るといつも思うのは「実際のオーロラはどれくらいの速さで動くのだろう?」ということだ。テレビ映像などでは変化の速さが遅いものを見せる時にはタイムラプスなどの手法でいわゆる早回しをして表現したりする。オーロラを映した映像は夜中に暗い場所で撮ったものなので周りの風景や人の動きは映っていない。だからそれが早回し再生をしたものなのかどうかを判断するすべがないのである。

それは小学生の頃から感じていた。特にオーロラなどは風になびくカーテンのようにひらひらとはためいていた方が絵になりやすい。だから制作者が感動的に見せようと意図して編集しているのではないかという疑問だ。ボクは「動かなくて感動的ではない」ものでも実際にそうであるのならそれに忠実に見せて欲しいと思っている。誰もが映像に対して感動するものであることを求めているわけではない。事実を事実として映し出すことは人を感動させることと同じくらい重要なことだと思っている。

オーストラリア北部でごくたまに見られるという「モーニング・グローリー」という雲の渦が逆巻くように迫ってくる映像も感動的ではあったが実際にはそれくらいのスケールでどれくらいの時間でどれくらいのスピードで起こる現象なのかについて番組の中で触れられることはなかった。それはボクにとって、すべてが現実を映し出したものなのか加工された映像なのかを判断する材料がないということなのだ。

今のテレビやネット上に公開されている映像や画像は多かれ少なかれ加工されたものだと思っている。青すぎる南国の空、赤く鮮やかすぎる奥飛騨の紅葉、すべてが不自然だ。あまりにも鮮やかに加工された映像ばかりを見せられた後に本物を見た時、我々はその美しさに心から感動することができるのだろうか。作り物のどぎつい理想ばかりを見せ続けられて本物の自然の美しさに心は動くのだろうか。

メディアがすべてを誇張しすぎるから初めてホンモノを見たときにも感動できない。「すごーい!絵葉書みたーい!」などと言う。絵葉書は限界まで加工されたまがい物の象徴だ。だが自然は本当に気まぐれで、誰もが感動するような光景に出会える可能性はとても少ない。だから絵を描くように写真を加工して「条件がいい時はこうなんですよ」という姿を作っている。すると我々はそれを見て、いつでもこんな光景が簡単に見られるものと勘違いしてしまう。そして本物を見た時にはがっかりして「話が違う」などと言い出すのだ。

すべてが嘘臭く見える今の時代に本物の素晴らしさを目の当たりにすると、加工された画像や映像よりも何100倍も素晴らしいことに気づく。それは別に世界遺産や世界的に有名な絵画である必要はない。家の窓から見える普段の山や海などの風景の中にも素晴らしいものはたくさんあるのだ。

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