背水の陣

誰でも人生で、ニッチもサッチもいかない状況に陥ったことが1度や2度はあるに違いない。それは仕事上のトラブルだったり人間関係だったり経済的な事情だったりと状況はそれぞれだろう。それでも今は普通に生きている。あの時はどうにもならない状況だと思っていたのに今はその状況を何とか抜け出している。あの時は打開策などないと思っていたのに問題はいつの間にか解決している。何があったのだろう。

誰かの助けがあったのだ。覚えていないかもしれないが誰かが事態を良い方向に動かしてくれたのだ。それは一人だけではないかもしれない。その人も相手を危機から救い出そうと思ってやったのではないかもしれない。その人本人の利益のためにやっただけかもしれない。しかし結果的に自分はその状況から抜け出せたわけだ。自分の危機を救ってくれた人が周りにはいたのだ。その誰かがその危機から救い出してくれた。

やるかやられるか。退路を断つからこそ成功の、いや最悪の状況から脱却する可能性が見えてくる。それは成功へ続く道とて同じことではないかと思っている。中途半端に「やりたい!」と願っているだけでは成功はしない。本気になって後戻りできない覚悟を持ってやらなければ前には進まない。

自分の周りに一人でも本気になっている人がいるとその周囲からも本気になる人が出てくる。しかしその人とのベクトルは必ずしも一致しないだろう。それでも誰かが本気になっている姿を見ると自分も何かに対して本気にならなければならないように思う人も出てくる。ベクトルは違っていても”本気のやる気スイッチ”がONになれば目には見えなくても少しずつ前に進み始める。しかしそれが目に見えるようになるのはまだ先だ。

ともすれば目に見える直前で諦めてしまうこともある。目に見える状況が何も変わらなければ、いくら頑張ったところで到底モノにはならないと思ってしまうのは当然だ。進捗状況が手に取るように見えてこそモチベーションが保てる。いくらやっても成果が見える形で現れないと気持ちは荒んでくる。大抵の場合はここで諦めてしまう。しかし退路を断って前に進むしかない状況ではそう簡単に諦めることはできない。もはや後には引けないのだ。歩かなければならない、歩き続けなければならない。

賢明な人はこのような状況を好き好んで自ら作ろうとは思わない。引くに引けない状況は自滅を意味するからだ。しかし思い出して欲しい、かつてニッチもサッチも行かなくなったときのことを。必死で考え必死で行動しても切り開くことのできなかったときのことを。あの時は自分で望んで退路を断ったわけではなかったが置かれた状況は同じだ。必死で考えて抜け出そうとしたあの気持は一緒だ。性急に安易な道を選ぶことなく考えて行動することしか道が残されていないなら、その道を黙々と歩き続けるしかないではないか。

ところが同じように、他にそんな人を見るとこちらも最悪な状況にいるにもかかわらず何かをしなければと思ってしまう。 最悪なのは自分だけではないのだと思うと手を差し伸べたくなる。何故だかわからないが同胞を、同士を見たような気になるのかもしれない。それがたとえ目指す先が別の方角だったとしても。

自分が何をできるわけでもないことは分かっているにもかかわらず応援したくなってしまうのだ。

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