機械はおせっかいすぎないほうがいいのか?

昨今の義足や義手などのいわゆる義肢装具(ぎしそうぐ)は非常に高水準で精巧かつ高性能なものがあるらしい。もっとも高性能であればあるほどお値段も目が飛び出るほどするので必要な人であってもそう簡単に手に入れられるものではないのが現状だ。それとはまったく別の用途だが、最近ではロボットスーツのようなものも開発が進んでいる。これは健常者が力仕事の補助の目的などで使うもので医療や介護の現場などでも実用化が進んでいるらしい。体に取り付けると重いものを持ち上げたりするときの体への負担を減らすことが目的だ。

子供の頃、「バイオニック・ジェミー」( 原題:The Bionic Woman)というアメリカのTVドラマを日本でもやっていた。事故で全身に大怪我を負った女性が最新科学の力で手足や目、耳などに人工の装置を組み込まれて再生した半アンドロイドが主人公のドラマだ。車より早く走ったり重いものを持ち上げたり遠くのものや真っ暗な中でも物が見えたりかすかな音を聞き分けたりできる超能力を身につけたわけだ。もちろんこれは40年も前に作られたドラマなので空想の話なのだが、当時からロボットのような義肢装具の研究は進められていたのかもしれない。

ドラマの中での人工の手足などは生き残っている脳などの人間の神経と完全に接続されていてぎこちなさはない(本物の健常な人間が演じているのだから当然だが)。それでもいざという時にはすごいパワーを発揮するのだ。しばらく前から自動車の組立工場などでは重いタイヤ等の部品を持ち上げたりするのにアシストロボットを使っているが、最近では人の体そのものをアシストできる道具が開発され実用化が進んでいるのには驚かされる。しかもこれらのアシスト器具は人間の手足に向かう神経信号を精密なセンサーで受信して動作させているというのだからびっくりである。

人間は普段の生活の中で健常者であっても蹴つまずいて転んだり掴んだものを落として壊したりすることがある。失敗だ。人は歩いたりする時にいちいち「右足を出して、体重移動をして、左足を出して…」などと頭の中で考えてはいない。無意識のうちに脳が勝手に計算して司令を出して歩いている。その中で失敗も起こる。もし人工の手足が考える力を持って人間の失敗を補うようになったら歩いていて転んだりお皿を落として割ったりすることがなくなるのだろうか。横断歩道を赤信号に気づかないで渉ろうとしたら脚が動かなくなって前に進まなくなったり階段の段差につまずいたりしなくなるのだろうか。それは足腰の弱った高齢者や障害者にはありがたい機能だろう。今までは頑張ってもできなかったことができるようになるのだから。

しかし健常者にとってもそんな機能が必要なのだろうか。自分の不注意で失敗するところを機械に助けてもらうということがである。今では車を運転中にボケッとして前を見ていなくても前の車が止まれば追突しないように非常ブレーキをかけてくれる機能のついた車も多くなった。しかしだからといってそんな機能に頼るようになって自分の失敗を悔い改めることがなくなってしまうとしたら、それは人の進化、いや生存にとって果たしていいことなのだろうか。最初から「失敗してもいいや」と思ってしまったら自らが努力して頑張るということもしなくなっってしまうのではないだろうか。日本は比較的治安がいいからといって深夜の暗い道をスマホの画面を見ながらヘッドホンで音楽を聴きながら周囲に注意を払うこともしていなければ、いきなり暴漢に襲われて刺されることだってある。そういう備えを忘れてしまってもいいのだろうか。人がますます白痴化していくような気がしてならない。

日々の暮らしは科学の進化によってますます便利に安全になっている。その一方でその中で暮らす人間は反比例するようにダメになっていってしまう。機械もたまには人間のように失敗するように作ることが必要なのだろうか。おせっかい過ぎないほうがいいのだろうか。答えはやがて近い未来に出てくるのだろう。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください