ホンッッットにスッッッゴク

街に出るといろいろな会話が耳に入ってくる。最近では一人でスマホだけを見ている人が多いのでほとんど会話しない人たちも多いが、それでも女性同士のグループなどはよく喋っている。中学生や高校生くらいだと学校や食べ物の話が多くママたちは当然のことながら子供の話題が中心になる。耳に入ってくる会話を聞いていて気になるのは話の内容ではなく形容詞や副詞に付いている修飾語であり強調表現だ。今に始まったことではないが会話の中で「すっっっごくキレイな景色だったぁ」とか「ほんっっっとにびっっっくりするほど美味しかったぁ」などと言う人を見るとちょっとがっかりする。あなたがいいと思ったのはわかるけれども単純な強調表現しか出てこないのはたぶんボキャブラリが貧困なせいなのだろうと思う。かく言うボクも子供の頃から表現の多様性がないことにコンプレックスを感じていて「こんな場面があたかも目の前にあるようにイメージできるような言葉がスラスラと出てきたらどんなに素晴らしいだろう」と思っている。でも未だに実現できないでいる。

特にボクが感じているのは、素晴らしいものに出会ったときなどにその感動や感激を他の人に的確に伝えられないもどかしさだ。自分でも「すっっっごく」などと言っていると(これじゃ伝わらないだろうな)と思って情けなくなる。他の人はそういうもどかしさを感じないのだろうか。「超リアル」だとか「スーパーかっこいい」などと言う言葉を聞くたびに(この人は本当にそう思っているのだろうか)と懐疑的になってしまう。テレビ番組の食レポなどを見ていても、タレントが口に入れた瞬間に「うま~い!」などと言っていると(あんた、食べてから言ってる?)とテレビに向かって突っ込みたくなるときもある。おそらくヤラセなので演技している本人もその不自然さが気にならないに違いない。

ボキャブラリーは普段から使っていないと身につかないし知っている言葉でも錆びついて出てこなくなる。普段の会話の中では多少ボキャブラリーが貧しくてもさほど気になるものでもないが、すっっっごくすっっっごくを連発されるとだんだんと鬱陶しくなってくる。「すっごい」のはわかったけどどういうふうに「すっごい」のかが伝わってこないのだ。若い芸人さんや俳優さんが食レポしていても「すっごく美味しいです」と言われてもイメージが湧いてこないと思う。「もぎたての桃のように」「『今半本店』で食べるA5和牛のすき焼きのように」というようにちょっとでも具体的な表現をできないものかなぁと思ったりする。

具体的に相手にイメージしてもらうには、まず自分自身が多くの経験を積んでその時の想いを言葉に置き換えて表現するという訓練を常にしていなければならない。ちょっと違う分野だが以前に働いていた職場で同僚だったソムリエに聞いた話では、ソムリエはワインの味や風味を表現するためにいくつかの共通の匂いや色を表現する言葉を持っている。それは「フルーツのような香り」であったり「チョコレートのようなビターな香り」であったり時には「猫のオシッコのような香り」などと表現することもある。彼らはソムリエの勉強をする中で様々なワインの匂いを嗅いでいる。仮に猫のオシッコの臭いを嗅いだことがなかったとしても「このワインのような匂いは猫のオシッコと表現するのだ」と無理やり刷り込むわけだ。彼らはその共通語を持っているから飲んだことのないワインであってもその説明を聞くだけで味や匂いをイメージできるのである。

普段の会話の中で使う表現であってもある程度の具体性を持っていなければ意味がない。しかも会話の相手が聞いてもイメージできるような共通のものが必要だ。自分だけが知っているもので表現したところで何も伝わらない。相手が音楽が好きなら音楽関係の内容に置き換えて、仕事のことしか考えられない人ならその人の仕事に関係した内容に置き換えて表現しなくては伝わらない。話し手に多様なボキャブラリがあっても聞く側がその言葉や表現を理解できなくなってしまったら意味はない。だから相手にわかりやすく伝えるためには話し手にはいろいろな立場の人の感情に訴えられるような幅広い知識が必要になる。

今の若い人たちの会話を聞くにつけ、自らが進んで新しい挑戦や経験をしたがらない昨今の人々の風潮を目の当たりにすると、秋の山々の紅葉した木々を見るような奥深い静けさを感じさせる美しい日本語が絶滅してしまうのではないかととても不安に感じている。

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