ほぼほぼ

最近、どうも繰り返しをする言い方が流行っている。「ほぼ」が「ほぼほぼ」だ。話し手に自信がない時に使う表現のような気がしているが実態はよくわからない。「まぁまぁ」は割と昔から使っていたと思う。「まめまめしい」も「マメな人」という意味で使われることもある。「そもそも」も普通に使われている。「いやいや(嫌々)」だって古くから市民権を得ていた。しかし「はいはい」と言うと「返事は一度でいい!」と怒られたものだ。考えてみると日本語では副詞や形容詞を繰り返して使う表現は割と一般に根付いているのでその延長かなという気がしている。言葉は常に変化している。「粘着」という言葉がとっさに思い浮かばなければ「ベタベタ」や「ネバネバ」などという擬態語に近い言葉に置き換えることで感覚を伝えることができる。その点で日本語は便利だが外国語にでも会話の中ではそのような表現に出会うことはある。

どこかの雑誌かテレビ番組でも軽く話題になっていたが新しく使われ始めた言葉や若者同士のスラング(俗語)に近い言葉遣いに苦言を呈する年長者は多い。特に日本人は現状を変えることに抵抗する人の多い文化なので新しく使われ始めた言葉に対しても嫌悪感を持つ人が多いのかもしれない。一方で擬態語や擬音語を多用する人もいる。単にボキャブラリが貧困なのかなとも思うが本人にしてみればよりリアルに状況を伝えたいがそのための言葉が見つからないということだろうか。あ、コレこそがボキャブラリが貧困だということか(笑)

こういう話題になるとボクは作家の井上ひさしさんを思い出す。井上さんは一つ一つの言葉を大切にする人で、その作品の中でも言葉の選び方が絶妙で特に副詞や形容詞のセンスが抜群だと思っている。そして圧巻なのは同意語同義語などの副詞や形容詞のボキャブラリの豊富さだ。彼の小説「吉里吉里人」の中では意地になって1ページを同意語同義語で埋め尽くしている部分もいくつかあり、それも楽しみの一つになっている。

そしてもうひとり素晴らしいと思っているのが歌手の中島みゆきさんだ。彼女の歌を聴いているとどうしてそこでこんな言葉を思いついてメロディーに乗せて歌えるのだろうと驚嘆することがしばしば(笑)ある。さだまさしファンの一人としては残念だが彼の曲にも昔はいい歌詞があった。しかし最近はストーリ重視の曲が多くなって言葉の遣い方では残念ながら中島みゆきさんの足元にも及ばないと思っている。今も昔も、中島みゆきさんの曲を聴いていると次の歌詞ではこの言葉を遣うのだろうなぁと思っているところにもっと素敵で素晴らしいしっくりとくる表現で歌われていて、何度聴いても「やられたなぁ」と驚きを新たにするのだ。

このような話をするとすぐに「それって正しい日本語なの?」とか「日本語の乱れだ」という人が必ず出てくる。以前からここにも何度か書いているがいつの世にも言葉には乱れなどないのだ。その言葉が多くの人の支持を受ければ後世に引き継がれていくだろうし、ごく一部の共感しか得られなければ自然に消えていくだけだ。新語であれ俗語であれ広く認知され共感されて言葉として一定の共通認識ができればそれは立派に新しい言葉だ。ボクが子供の頃には「ら抜き言葉」(食べれないや喋れないなど)は間違った日本語だと学校で教わったが、今では若者からお年寄りまで幅広い年代の多くの人が使っている。未だに「乱れた日本語」の例として取り沙汰されテレビのインタビュー場面でもインタビューを受けている人が「ら抜き言葉」を使うとスーパーインポーズ(字幕)では「ら」を入れた言葉に置き換えられている。それほどまでに日本人は(日本だけではないかもしれないが)言葉に対して頑固な一面がある。まぁいい、そのうちに時代の流れがどちらに軍配を上げるか決めていくのだろう。

それでも面倒くさい、発音しにくい言葉は次第に他のものに変化していったり消えていく運命にある。古事記や日本書紀、万葉集などの古い書物を見てもかつて使われていたという地名や動詞が変化した結果、今の言葉となって残っている例は枚挙にいとまがない。そもそも(笑)現代人は専門家でもない限り昔の言葉を読んで理解することすら難しくなっている。その多くはより発音しやすく変化したり省略されることが多いのだが、切り返し表現は逆に言葉の長さを2倍にすることでより状況にフィットした表現を作り出そうとしている。でも「もっとももっとも」なんて言い始めたら会話や文章がやたらと長くなってイヤイヤだなぁ。

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