座って食べるのが日本のお行儀です

「立って飲むのがお行儀です」

というコマーシャルが昔あった。コロナビールが輸入され始めた頃のことだからもう40年以上も前のことだ。ボクが子供の頃には立って食べ物を食べたり飲んだりすることは最悪に行儀の悪いこととされていて、家でも「座って食べなさい!」と祖母や母にきつく叱られたものだった。恐らくはガイジンにとっては”音を立てる食べ物をすする”ことくらいに厳しく躾けられていた。

しかし今ではそんな躾はすっかりなくなったようで、逆に椅子やテーブルがないと食べられない人を”面倒くさいヤツ”と見る傾向もある。「そんなものそこで立ったままさっさと食べてしまえよ」ということなのだろう。ホテルのパーティーでも「立食形式」は普通にあるしファストフード店などには立ち席だってある。そういえば日本には昔から「立ち食いそば」があったが、江戸時代の寿司屋や蕎麦屋のような屋台発祥のものは例外だったのだろうか。いや、ボクの明治生まれの祖母は立ち食いそばも許していなかったようで、子供の頃には前を通っても「あんなもん見ちゃダメ」と言われていた記憶がある。
(CMで♪職業選択の自由あはは~ん♪と歌われたのはもっとずっと後のことだ)

今では観光地などに行っても食べ歩きが普通になり日本人もガイジンも食べながら町をそぞろ歩く姿は珍しくない。都心でも渋谷や青山、原宿、新大久保といった若者が集まるところではそこら中に歩きながら食べたり飲んだりしている人を見かける。今でも歩きながらや電車やバスの中で飲食しているのを見ると嫌な顔をする高齢者の人がいるが、ほんの30年ほど前までは長距離列車の駅弁でもない限り乗り物の車内で飲食をすることはすこぶるお行儀の悪いこととされていたのだから仕方ないと言えば仕方ない。

日本では食べるものに敬意を表する文化があって、食事の前には「いただきます」、食べ終わった時には「ごちそうさま」という習慣が今でもある。”いただきます”は食材としてその命をもらった生き物に対して「(あなたの命を)頂きます」だと聞いたことがある。そして走り回ってその食事を作ってくれた人に対して「ご馳走さま」と感謝するのだ。だから食べ物を残したり捨てたるすることはせっかく自分のために捧げてくれた命を疎かにするという意味で”悪”だった。「一粒のお米には七人の神様が宿っている」と言われ、現代の日本人もお茶碗や弁当箱に付いた米粒を一粒残らず食べる人がほとんどだ。ほんの少しの食べ物でも疎かにしない文化をかつての日本人は持っていた。それが今でも食事の時に言葉として口から自然に出てくるのだ。

高度経済成長と飽食の中で日本人は次第にその心構えを忘れてしまった。レストランでも注文した料理を平気で残したりコンビニやスーパーで売られる加工食品も私たちに見えないところで毎日膨大な量が廃棄されている。最近では年間を通じて様々な行事が企画され、恵方巻きだの土用の鰻だのと大量の料理がコンビニやスーパーの店頭に並ぶようになった。加工されたお惣菜は当然のことながら日持ちもせずイベントが終わってしまえば売れ残るために廃棄される運命にある。加工されていなければ冷蔵冷凍などで保存しておけた食材がである。

流通業者や販売店は「機会損失」を理由に必要以上の商品を店頭に並べる。もちろん商品が店頭になければ販売できないのだから機会損失だという理屈はわかる。しかしそのために、お世辞にも資源が豊かだとは言えない日本でこれほどまでの食品ロスを見過ごしていいものだろうか。そして廃棄される食品にも原価がかかっている。廃棄すればそれらは”ムダ”となり廃棄費用もかかる。環境にも大きな負担をかけている。

「機会損失」を理由に食品ロスを出すのなら需要量よりも少ない量だけを生産して基本的にすべてを売り切る方向で考えられないものだろうか。ご存知のようにあまねく希少品にはプレミアが付くのだ。機会損失を理由にムダを出すよりも今の日本なら商品に高い価値を見出してくれた人にプレミアムを付けて販売すればいいのだ。恵方巻きや土用の鰻、クリスマスケーキは必需品ではない。食べられないからといって死んでしまうことはない。

海外から日本にやってくる観光客が街中や観光地で「食べながら歩けないのはつまらない」などと行っているのを聞くにつけ、古くから食べ物に敬意を払い大切に扱ってきた日本の文化をガイジン達に伝えていくのも日本の観光産業に関わる人の使命であり日本文化を広く宣伝する強力なツールになるのではないかと思っている。

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