『変わらない』という価値

ボクは割と物持ちのいいほうだ(と思う)。特に着るものにはあまり頓着しないので10年物、20年物のシャツやズボンなどタンスの中にはザラにある。もっともズボンは身体の経年変化とともに着られなくなったものも多いのでシャツや上着に比べれば新陳代謝は早い。もっともいくら物持ちが良くても20年も着ていれば擦り切れたり穴が空いたりするのでそんなときはオシャカにする。代わりに新しいものを買いに行くのだが、特に好みも決まっていないので必然的にそれまで持っていたものに似たものを選ぶ傾向がある。できることなら全く同じものがあれば使い勝手も分かっているのでそれを選ぶところだ。ところが大抵の場合は同じものなどとっくになくなっておりライフサイクルが短いものでは数ヶ月で姿を消してしまうのだ。

昔から新しい製品が出てもメーカーはさらなる改良を続けてより良い商品を世の中に出そうと努力している。日々新しい製品が次々と発表され高性能になって我々の生活はますます便利になっている。

ほんの10年ほど前まで、テレビはアナログ放送だった。テレビで使える電波の帯域が限界になったりした事情もあって日本中のテレビは地デジになった。もちろんそれまで使っていた我が家のテレビはアナログの旧式だったのでそれを機に新しいものに買い換えることにした。

それまでのテレビ放送に不満があったわけではなく「そんなに高性能じゃなくてもいいのになぁ」と思いながら渋々買い替えたのだった。しかし10年経ってかつてのアナログ時代の番組などが放送されるとその画質の汚さや画面の小ささに愕然とするのだ。それは当時、光回線が出始めたインターネットでも同じことがいえる。技術革新は素晴らしい!新製品バンザイ!

今までも何度か書いているがボクは趣味でスキューバダイビングをやっている。かつては海の中にカメラを持ち込んで写真を撮るダイバーなんて少数派だったのだが、今では小型の防水デジカメなどが発売されてカメラを持たずにダイビングをする人のほうが少数派になってしまった。それ以前は水中に持ち込むカメラはフィルム式の一眼レフを水中用の防水ケースに入れて海の中に持ち込んでいた。海の中ではフィルム交換などできないので一回の潜水で撮影できる枚数は最大で36枚だった。だから撮影する時には「この被写体は撮影するに足るものなのか」を慎重に吟味した上でおずおずとシャッターを切っていた。

しかし時代がデジタルになって撮影枚数がほぼ無限大になると(ストロボの電池がなくなるので実際に撮れる枚数には限りはあるが)ところかまわずバシャバシャとシャッターを切るようになった。特に動きの素早い生き物などを撮っているとひとつの個体に数百枚を費やすことなど普通である。撮ってみるまでピントが合っているかどうかすらわからない被写体では「数撃ちゃ当たる」方式しかないのだ。

しかしそうやって膨大な枚数の写真を撮れるようになったからといっていい写真が多くなったかといえば、実のところあまり変わらない。駄作が増えただけのような気もする。海から上がって撮った写真を見直してみると結局のところ最初に撮った一枚がピントも構図も一番良かったりするのだ。あとは全部どうしょもない失敗作ばかりが何百枚も残っているだけだったりする。それは思うに最初の一枚にかける集中力の差なのかもしれない。

話が横道にそれた。
その水中撮影に使っているカメラに新型の高性能な後継機が出てもボクらはおいそれと新しい機種に買い換える訳にはいかない。カメラ本体の外形やスイッチの位置がわずかでも違っていると今使っている水中用防水ケースに入らなくなってしまうのだ。カメラの本体は新品で10万円程度で買うことができても一眼レフ用の防水ケースは一つで50万円もする。だからボクが今使っているカメラも6年前には既に旧型になっていたモデルだ。新型の高性能モデルは微妙に形やスイッチの位置が変わっているのだ。しかしカメラを高性能にしたからといって必ずしも素晴らしい写真が撮れるようにはならないので旧モデルのまま使い続けている。いつかこのカメラが壊れた時には防水ケースも一緒に”燃えないゴミ”になってしまう宿命だ。

今ある商品を改良したり新製品を出すことは大切なことだが、同じくらい変えないということにも意味がある。すべてのものの進歩を止めたほうが良いという話ではない。しかしライフサイクルや使用目的によっては”あえて変えない”ということが価値を生み出すことだってあるのだ。

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