アタリマエだと思っていること

横断歩道で赤信号を待っている人がいる。やがて信号が青になって横断歩道を渡り始める。普通の光景だ。しかしその人は何のために信号が青になるのを待っていたのだろう。ひたすら信号が青になることだけを願っていたわけではあるまい。目の前を猛スピードで通り過ぎる車とぶつからないようにするために待っていたに違いない。

赤信号は待つことが目的ではない。青信号は「歩け」という命令ではない。信号機の目的は事故が起こらないようにするためだ。そこに関わる全員が信号を守っていれば衝突することはありませんよという目的で設置されている。だから自分や他の誰かがルールを破ればたちどころにアクシデントが発生する。それを避けるために赤信号を待っていたのだ。

でも信号が青になって横断歩道を渡り始めた人の頭では事故のことなんて考えてもいない。ただ目の前の信号が青になったから渡っているだけだ。だから信号無視をした車が横から突っ込んでくれば無残にハネられて終わりだ。でも自分は事故を避けるという本質よりも信号を守るという建前を優先する。それでいいのだ。自分はアタリマエのことをアタリマエにやっていただけなのだから。すべてのことに気を配るのは面倒くさい。誰かがルールを決めたのだからそれを守っていればいいのだ、とニッポン人は考える。

アタリマエだと思っていることはなかなか間違えに気づかない。アタリマエだと思っていることに疑問をいだいているだろうか。そのアタリマエは本当にアタリマエなのだろうか。アタリマエだと思って勘違いしているだけではないのか。

何も考えないでボーッと生きているのはラクだ。前もって決められたことだけを守って行動するのはラクだ。でも何も考えないまま生きていると何も考えようとしなくなる。そして何も考えられなくなる。それも人間なのだろうか?

パスカルは言った。
人間は考える葦である。

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