ちゃんとすること、いい加減にすること

ラーメン屋のカウンターで注文したラーメンが出てくるのを待っていると学生と思われる3人連れが店に入ってきた。最初の一人が店の扉をちょっと開けて空席があることを確認すると3人が続けて入ってくる。最後の一人が店に入ると後ろ手に扉を閉めた。いや閉めようとして途中でやめた。扉が中途半端に開いた状態のまま最後の一人もカウンターの席に座った。客席側にいたマスターの奥さんと思われる女性が半分開いたままの扉を見てから扉に歩み寄りキチンと閉め直した。

扉を最後まできちんと閉めることと中途半端でそのままにすることの間にどれくらいの努力が必要なのだろう。ほんの10センチ、今その手で触っている扉を動かすだけである。1秒もかからず力も必要ない。しかし最後に入ってきた彼はそれをキチンとしなかった。取るに足らない僅かなことである。でもそれをキチンとするかいい加減なままやりっぱなしにするかで他人の彼を見る目は変わる。

彼がもし就活中の学生だったとして、希望する会社の面接会場に入ったときならどうだったろう。間違いなく最後までキチンと扉を閉めて面接官に丁寧にお辞儀をするに違いない。

誰かが見ていたらやるが誰も見ていなければやらない。いざというときだけはやるが普段はキチンとしない。採用面接ならキチンとするがラーメン屋ではやらない。
一貫しない行動は信頼をなくす。「この人は他人に見られていなければやらない人なんだ」と思われる。そんな人は自分がやりたくないと思ったことには往々にして手を抜こうとする。自分が目先で得をすると思ったことだけしかやらない。そんな人を採用しても”会社は損をするだけ”である。だから採用面接も不合格になる。

そういう人は「自分が得をしなくても周りが得をすればそれでいい」とは決して考えない人だ。その代りに「そんなことして何の得があるの?」とはよく聞くセリフである。

「自分が直接得になるようなことはなくても
誰かが得をして笑顔になれば自分も嬉しい」

と思えないのは寂しいことである。そういう貧しい考えをしていると巡り巡って最後には自分が損をする。「情けは人の為ならず」とは昔から言われている諺である。自分が嬉しいときに笑顔になり他の人が笑顔になっているのを見て自分も笑顔になれれば自分は二倍楽しくなれる。これこそ自分にとって得なことだと思う。

しかしそんな人はなぜそうなってしまったのかにすら気づかず考えを巡らすことができない。気を巡らす代わりに不幸を誰かのせいにする。「どうしてオレだけ…」と世間に八つ当たりする。だからまた損をする。悪循環なのだ。そうして最後にカッとなって事件を起こす。

でもそんな人を見ていると脳天気な気分にもなれる。

「他人がこれくらいしか努力しないなら
自分は何をやっても食っていけるな」

ものは考えようである。

天はすべてを見ている。老子も言っている。

「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」

と。

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