わからない人が承認する社会

サラリーマンをやっていると書類を書くということは大切な業務の一つである。就職して一番最初に教えられたのは伝票の書き方だった。会社ではモノ(商品)の移動に伴って伝票が動き、伝票の動きに従ってカネが動く。学生時代にはほとんど縁のなかった伝票というものの存在を意識したのはこのときが最初だったような気がする。

次に困惑したのが稟議書だった。学生時代には自分がやりたいと思うことはただやればいいのであって、誰に許可を貰う必要もなかった。立ちはだかる障壁は主に経済的な問題だけで、それはいつの世もどこの世界にも存在する普遍的なことだ。

会社勤めをすれば必ず上司がいて社長がいる。会社で使うカネは会社のものであって自分のものではない。だから1円でも経費を使おうとすれば会社の許可がいる。勤務時間中の自分の行動にも”給与”という会社のカネがかかっている。だから自分勝手な行動は許されない。たとえそれが会社の利益になると自分自身が信じていたとしてもだ。その証拠を示して上司を説得して稟議書に許可のハンコを貰わなければならない。

許可を取り付ける申請書が稟議書だ。そして上司や社長の許可を「承認」という。バカバカしいくらいアタリマエのことだが会社での行動にはすべて承認が必要だ。そしてサラリーマンはそのルールの上で行動している。一見、承認が必要ないように見えてもそれは既に承認を受けているか省略が許されているからだ。

「承認」というのは言うまでもなく申請された行動が論理的で正しく、なおかつ会社や従業員に利益をもたらす可能性が高い場合に与えられる。自分が、論理的で正しくて効率的だと思っていても上司から見てそれが会社にとってメリットをもたらさなければ却下される。

例えば「今ある機械よりも高性能で時間あたりの生産効率も2倍になり利益が増える」という新型の機械を新たに導入したいという稟議が上がったとする。提案した人は利益が増えれば会社にとってメリットだと考えたとしても、新しい機械を導入するための投資額が増加するはずの利益を上回ってしまえば何にもならない。

目的は利益を増やすことであって生産効率を増やすことではない。
しかし仮に投資額が莫大であってもそれを回収するためのリスクが小さく短期間で投資を回収した上にその後にも大きな利益を出せる見込みがあるのなら十分検討に値する。その判断は経験や市場や業界の調査、リスク評価の仕方などで大きく左右される。

大企業であればあるほど事業分野は拡大し多岐にわたる知識や経験が必要とされる。もっとも現場の知識や経験だけで経営判断をすることは目先ばかりを見て長期的な展望を見損なうことも多く、現場をよく知っているものだけが判断すればいいというものではない。

組織が大きくなればなるほど人事的なバランスを取ることに拘って適材適所を欠くケースも増える。「彼はよくやってくれたからそろそろ部長格にしてもいいんじゃないか」だの「彼女は現場で品質向上に貢献したから本社に異動させてもいいだろう」などという話が交わされる場面を何度か目の当たりにした。就業年数や社内での人気、まぐれかもしれない成功や失策によっても社内の人事は目まぐるしく変わる。

あなたの上司はどこからやってきた人だろうか。長年にわたって今の現場で経験を積み取り仕切ってきた人だろうか。それともトコロテン人事で別の部署から押し出されてきた人だろうか。いずれにしてもその人は現場の何を決裁できる人なのだろうか。人事?経費?プロジェクト?

何をやるにしても稟議書を書きいくつもの上司のハンコを貰わなければ組織が動くことはない。しかし決済のヒエラルキーの中に一人でも状況が把握できずに「自分の知らないことにはハンコは押さない」人がいればその人の能力を超えたプロジェクトは動き出さない。

現場の状況をよくわからない人が承認するニッポン。上司は誰もが部下よりも有能であるとは限らない。右も左も何も知らず何もわからない人がする、あるいは拒否する承認に何の意味があるのだろうか。
承認とはある意味で組織の防御システムである。内容を見もしないで、よしんば見たとしても理解できずに承認すればなんの防御も働かない。

日本のほとんどの大企業や組織では現場を知らない管理職や経営者が成り行きでハンコを押している。そんな状況が今の日本の停滞を生み出しているとしたら、それは大いに憂慮すべき問題だ。

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