成果主義は本当に素晴らしいのか?

遠山の金さんは人気者だ。大岡越前然り、水戸の黄門様然り、アンパンマン然り、銭形平次然り、ウルトラマン然り。勧善懲悪、正義の味方はいつの時代にも人気者だ。アメリカでもスーパーマンやスパイダーマンは人気者だ。”イイもん”は大抵は弱い者いじめをしない。”悪(わる)もん”はイジワルだ。弱い者を助けて悪い者を懲らしめるキャラが人気なのは誰しも他ならぬ自分自身が弱いことを自覚しているからだ。できることなら自分も助けて欲しいと思う。

一方で強きを助け弱きを挫(くじ)く風習も日本には古くからある。例えてみれば、のび太をいじめてジャイアンにおもねるスネ夫だ。強いものの傘の下にいれば自分の身は安全だし楽していい思いができる。権力に弱いタイプは大抵こういう立場に身を置きたがる。虎の威を借りて弱い者いじめをする。ただしスネ夫は助けてくれるジャイアンに貢物をしなければいけない。

日本人は強権で強引な嫌なヤツから弱者を助けようとする精神も古くから持っている。庶民の味方でありねずみ小僧はその代表だ。権力者の悪銭をかすめ取って貧乏な人に分配する。しかもヒーローは権力もない自分たちと同じ庶民なのだから痛快だ。

しかし最初はいい人そうに見えた人もカネと権力を手にすると利己主義者に豹変することがよくある。明治維新の立役者たちも下級武士として辛酸を舐めていた頃には高い志で旧態依然とした幕藩体制を崩壊に追い込み、新しいニッポンを作るために文字通り命を賭して尽力した。しかし明治維新がなって新政府の高官になった途端に私腹を肥やし自分の利権拡大や保身に走った人のなんと多いことか。その子孫が今の国会議員たちである。血は争えない。

一番人気は正義の味方であり庶民の味方でもあるスーパーヒーローだ。自らの絶大なパワーを自分だけのために使うのではなくみんなをWin-Winの関係にするのだ。ただし”みんな”の中に”悪もん”は入らない。誰かをスケープゴートに仕立てて”みんな”の怒りを生贄となった”悪もん”にぶつけさせることでガス抜きをさせて自分の立場を保つ。

内外を問わずそのためには権力なり財力なり腕力なりの絶対的なパワーが必要だ。しかし絶対的なパワーは簡単に手に入るものではない。生まれながらの遺伝や大金持ちや総理大臣の家に生まれなければなかなか手に入らない。その上にそのパワーを天下国家のために役立てようと思い初志貫徹する意志の強い人間はいるのだろうか。

庶民が大きな権力や財力を手にした時に庶民の時、以前と同じような大衆車に乗っている人を見たことがない。必ず高級外車やセンチュリーやプレジデントに乗りたがる。いやそれは咎められることではない。しかし本当にあなたにはその車が必要だったんですか、と思うのだ。それは恐らく自分の権力や財力を誇示するために手にしたのではないか。
だから敢えて権力を誇示しなくてもみんながその強さを知っている人はあまり見栄を張らない。中途半端な小金持ちはそれを誇示する必要があるから背伸びをしたがる。

話は変わるが、社会が実力主義や成果主義を唱えるようになると「弱いものがいつまでも弱いのは自己責任だ」という風潮が大きな流れになった。ある意味ではその通りだ。自分が行動することもなく努力もしなかった結果が今の自分を作っていることもある。
しかしいくら努力しても経済的な理由や性的差別などで成就しないこともある。小泉内閣以降、その傾向に拍車がかかった。そもそも小泉元総理は三世議員だしその息子は四世議員だ。実力もなければ成果も挙げていない。それでも元総理大臣の息子たる四世議員は生まれながらに与党の実力者たる資格を手にする。それでも実力主義なのか、成果主義なのか、自己責任なのか。

そんな矛盾を政府は”1億総活躍社会”などといって改善しようとお題目を唱えているがどうも頓珍漢なことばかりで呆れる。もっとも自分が長州閥からの世襲制を頑なに守っているのだから仕方がない。全ては自分の保身や利権の確保がまず最初だ。まず最初だが、人間の欲というものには際限がないとくる。”最初の終わり”がない。

悪もんを減らすにはどんなヒーローが登場すればいいのだろう?
もっとも悪もんが為政者となっている今の世界じゃまだまだ時間がかかるのだろうか?