想定外だったこと、ありますか?

東北の大震災でフクシマの原発が事故を起こした。事故そのものも大変な被害と損害を出し続けているが、一方で原因の究明ということになると直接原因は想定外の大津波ということになってその先に議論は進まない。大津波が想定できたのかできなかったのかは結局のところ水掛け論のまま終わるような気がしている。
責任論からいえば想定内だったのか想定外だったのかは大きな問題だが、言ってしまえばもう起こってしまったことだ。元に戻すことはもうできない。覆水盆に返らずなのだ。
今度は全国で原発の再稼働問題も浮上している。有識者(と言われる人たち)がその安全性を審査しているらしいが、そこではまた何をどこまで想定するかという問題が出てくる。100%の完璧な安全はありえない。

原子力発電所の原子炉はミサイル攻撃にも耐えられるという話を聞いたことがある。もし本当だとしても1発のミサイルには耐えられるのかも知れない。だが1万発のミサイルが打ち込まれても耐えられるのかは疑問だ。想定というのは”何がどこまで起こりうる”と考えているかということに他ならない。

最近の日本では気象の環境も大きく変わりつつある。スーパー台風などという風速が100m/sを超える未曾有の台風の来襲も”想定”され始めた。仮にそれが現実のものになった時、原発への電力の供給は間違いなく確保できるのか、緊急事態に対応するための人は現地で復旧作業をすることが出来るのか。台風以外にも突然の噴火や山津波のような地盤自体の崩壊など無数の事態が起こりうる。そういったことが想定するということの一番最初に考えなければいけないことだ。

こんなことを書くといささか不敬ではあるが昭和天皇が崩御される直前のこと、テレビでは毎日、天皇陛下の容態が頻繁に伝えられていた。陛下の体温や血圧、急な症状の変化が伝えられほとんどの場合は「変動の範囲内です」というコメントが添えられていた。「変動の範囲内」というのはこの時に流行った言葉だった。その変動が何をどこまで想定していたのかはわからないが「これくらいの変化は普通です」というだと思った。もちろん天皇陛下も人間だからいつかは死ぬ。それを考えれば”人間の死”というものも想定内だといえば言えなくもない。

想定外を想定するには経験や知識と想像力が必要だ。今わかっていることから更に何が起こる可能性があるかを考えることが必要になる。もしそうなったら次はどうなるかを段階的に考えることで更に先のことを想定する。それをどこまで繰り返すかで想定の深さが決められる。それはある意味で思考実験にも似ている。
想定も先に行けばいくほど想定されることの分岐は増えていく。どこまでいっても「これで十分」ということはないが想定するには限界がある。無限に想定することは現実的ではない。「この辺でいいか?」と決める勘所はそれまでに実際起きたことの”何割増し”などで考えざるを得ないのが正直なところである。

しかし突然の想像を超える事態、万が一は絶対に起こらないということではない。以前にも書いたが現実世界に100%ということはないのだ。
最近は天候などの自然現象も事件や事故、公文書改ざん等まで含めると想定を超える事態が多発している。しかしそうして既知となった事実や知識を積み重ねていくことで今までは想定外だったものを今後は想定していくことが可能になってくる。
そのためには自分の脳と精神を常に鍛え続けなければならないと感じている。