侘び寂び

「侘び寂び(わびさび)」というと京都の古刹などを思い浮かべる人も多いだろう。日本的な風情という意味で使われることもある。
「侘び」はわびしいの意でがっかりしている様子だし「寂び」はさびしいの意で、あるべきものがなくなって満たされない気持ちを表す言葉だ。両方ともネガティブなイメージなのだが2つが重なると「風情」という意味になる。寂しくて侘しいことの何が魅力的なのだろう。

日本在来の日本人以外の外国人から最近の”侘び寂びブーム”は始まった。明治維新以降、古いものをすべて捨て去り西洋文化に追いつけ追い越せで日本の文明は邁進してきた。それに伴って古くからの日本の文化は捨て去られてきた。もっとも日本人がそれに見出していたのは”貧しい”、”未開で非文明的な”、”古臭く汚いもの”だけであって、それを日本人が顧みることはなかった。
ところが欧米諸国から日本に移住する人が増えたり、彼らが欧米諸国に発信する情報を頼りに外国からの観光客が増えると、かつての日本人が”貧しく古臭くて汚い”と感じていたものが脚光を浴び始めた。

古い戸棚や箪笥、火鉢など”邪魔なだけで使い勝手が悪い”と日本人が思っていたものが高値で取引されるようになった。それは西洋文化にはない日本の古さと木と紙で作られた”儚さ(はかなさ)”を兼ね備えた西洋では珍しい文化だった。しかし日本人はそれらを貧しさの象徴としてしか捉えなかった。それらを欧米人に見られることは日本の恥部を見られるように感じていた。だからすべてを捨て去って先進的なものに置き換えていった。
一方で欧米人は姿を消しつつあるそれらを掘り起こして珍しい文化として自分たちのものにしようとした。時としてそれは本来の使い方とはまったく違うものとしてインテリアになったり家具になったりした。

先日どこかで聞いた話だが、紙で鼻をかむのは日本人くらいらしい。今ではそうでもないのかもしれないが、たしかに西洋人はハンカチで鼻をかんでいた。
東京を始めとしてちょっと大きな駅の前ではあちこちでポケットティッシュを配っている。しかし海外でそんな光景を見かけたことはない。かつて友人がエジプトを旅した時もレストランでウエイターに「ティッシュをくれ」と言ったら500円だ(円ではなかったと思うが)と言われたという。そこで友人が日本でもらったポケットティッシュをカバンから出して口を拭いたらたいそう驚かれたらしい。日本では水も安全もティッシュも無料だ。

西洋では古くから紙は貴重品で何かを記録するためのものだった。しかし木と紙の国では懐紙というものを使っていた。今でも茶道などでは使われているが、いわゆる紙のハンカチだ。汚れれば捨ててしまう。紙で汚れを拭うのも日本ならではの文化だったが、今ではアジア諸国でも街場の安レストランに行くとテーブルの上にトイレットペーパーが置かれていたりする。

話を戻すが、日本では古くから秀吉や足利義満のような一部の大名などを除いて個人の所有物を派手に飾り立てるということをしなかったし好まなかった。それは16世紀の千利休から始まったことなのかもしれないが、良くは知らない。それは当時の日本が貧しく未開だったからというわけではないと思う。そんな中で、余分なものを取り去り極限まで無駄を削ったものこそ美しいとする文化は芽生えた。必要のない無駄なものを削ぎ落とすということは、今では企業でいう経費削減なのか。いやどちらかというと工業製品などでいう”機能美”に近いものなのだろう。
もちろん神社仏閣などは別である。アレは一種の宣伝広告塔でもある。

一方で日本人だからといって誰もが侘び寂びを解るわけではない。都内には奇抜なデザインの高層ビルが立ち並び、静かで落ち着いた簡素な趣(侘び)も古びて趣が増した静かな落ち着いた美しさ(寂び)も感じられない。しかしそんな建築物にも息苦しさを感じる日本人が多いことは見て取れる。奇抜なデザインで近代的なビルも、入口の一角に竹林風の簡素な庭や質素な日本庭園を設けたりするところも多い。

若いうちは都会の喧騒や猥雑な人混みに揉まれることが活気を感じられる刺激として楽しいと思う。しかし段々と歳を重ねるに連れ、乱雑で大きいだけの音やビジュアルを”騒々しい”と感るようになる。それは人それぞれに度合いは異なることなのだが、自然と静かで動きの少ない物への愛着を感じるようになる。

それは自分の人生が終わりに近づくに連れて侘びしさや寂しさに心落ち着くようになり、自分の周りにも「侘び寂び」を置いておきたいと思う日本人の遺伝子の中に組み込まれているのかもしれない。