食わず嫌い

子供の頃から好き嫌いはほとんどなかった。ただ幼稚園の頃に牡蠣に当たったことがあり、それ以来どうしても食べられないでいた。しかし、夜の宴会で酒浸りになっていた20年ほど前、「牡蠣は肝臓に良い」と誰かに吹き込まれ、ちょうどその時に旅行で行った保養所で夕食に出てきたカキフライを(肝臓のため)と思って食べたところとても美味しくて、それ以来大好物になっている。
今、どうしても好きになれないのは鮒寿司などのいわゆる”なれずし”だ。これは滋賀県に住んでいる友人が「(高いけど)旨いから」と好意で送ってくれたものがどうしても口に合わなかった。もっともこれらは非常に高価で食べる機会もほとんどないので実害はない。

食べたことがないものを「嫌い」というのを食わず嫌いという。食べたことがないのだから好きか嫌いかわからないはずなのに「嫌い」だと言う。心情的にあるいは宗教的に食べられない、食べたくないのなら分かるが、何が嫌なのかを訊いてもとにかく嫌なんだという。まったく根拠が不明だ。もっとも本人が食べたくないのなら無理に食べることはない。モッタイナイ。食べたい人は他にもいるのだ。

やったこともないことを「嫌い」というのはやらず嫌いという。ただ、バンジージャンプをやれと言われて嫌がるのはわからないではない。高いところが怖い人もいるだろう。しかし掃除が嫌いだ、片付けが嫌いだ、仕事が嫌いだというのはただのワガママではないだろうか。やろうと思えば誰もが出来て、しかもいつかはやらなければならないことを自分の都合だけでやろうとしないのはワガママと言われても仕方がない。

もしかしたらそれは、そのことや行為をバカにしていることの裏返しかも知れない。「掃除なんてオレ様のやることじゃない」だったり「片付けなんてヒマなやつがやることだ。オレ様は忙しいんだ」と思っている。掃除や片づけはしなくても、忙しいオレ様にスマホゲームをやるヒマはあったりする。結局は面倒臭がっているだけでやらない理由をこじつけているだけだ。

それならそれでもいい。でもモッタイナイ。せっかくの自分を磨くチャンスをドブに捨てていることに気づいていないのだ。
嫌なことや面倒くさいことを我慢してやることはある意味で得難い経験になる。やりたいことだけをやりたいようにやっていては魂が腑抜けになる。

仮にあなたが映画好きだとしよう。観たい映画を観たいだけ観散らかしていては”観る力”が弱くなってくる。映画が観たいと思う。我慢する。また映画が観たいと思う。我慢する。3本目にまた映画が観たい、と思う。観る。
そりゃ観る力が違う。観たい映画を全部観ているやつとは魂の籠もり方が違う。

ところが我慢にも限度がある。3本我慢し4本我慢し5本6本我慢しているとそのうちに何が観たいのかわからなくなってしまう。好きなものがなくなってしまう。そうなってしまっては元も子もない。逆に魂の力を潰してしまうことになる。何事もバランスだ。

最初から何事にも興味を持たずに何もやろうとしないのは、全てのことをやり散らかしているよりも悪い状態だ。何も経験せず、世の中のいいことも嫌なことも分からずに口ばかり達者でも、もはや誰にも相手にされない人になってしまうだけだ。