評価されたい人

出掛けに駅の立ち食いそば屋に入りました。昼食時で店内はほぼ満席です。入口近くの自販機で食券を買って空いていた椅子に座ると(最近は”立ち食い”が減りましたね)隣の老人男性にもりそばが運ばれてきたところでした。老人は80歳前後、半袖シャツに短パンのラフな格好です。その時突然老人が大声を出しました。店員に向かって「オイ!油が浮いてるぞ。ちゃんと洗えよ!」と怒鳴っています。どうやら出されたそばつゆのそば猪口がちゃんと洗われていなかったようでそばつゆに油の膜が浮いていたようでした。

ボクは、その程度でお腹を壊すわけでもないので普段からそのあたりをあまり気にしないのですが、潔癖な方には気になるのでしょう。すぐにやってきた店員は老人に頭を下げていますが畳み掛けるように文句を言っています。店員はすぐに別のそば猪口を持ってきて交換したのに老人は延々と不平を言っていました。
そんなに怒鳴らなくても「ちゃんと洗えてないから交換してくれ」と言えば済みそうなものです。

その老人の、お店のいい加減な仕事に対する不満はわからないではありませんが、ここまで大げさに騒ぎ立てると鼻につきます。
あたかも重箱の隅をつつくように店の不備を指摘して店員を怒鳴りつける。そんな態度を見ていると「あぁこの人は若い頃から誰にも認められずに不満タラタラで生きてきたんだなぁ」と思ってしまいます。その上に老年になって社会から自分という人間が”不要”の烙印を押されたと思い込み、そんな自分のプライドを守るために自らを誇示して社会に対してささやかな抵抗をしているように見えてしまうのです。

誰かに認められたいという欲望は人間の根源的な欲望の一つです。いくつになってもそれは衰えることはありません。もちろん「誰かの役に立っていたい」という想いは悪いことではありませんし自分を前向きにする原動力でもあります。しかしそれが「誰の役にも立っていない」と思いこんでしまった時に逆に作用してしまうことがあるのです。

若い現役の頃から周りからも注目されない存在だったりすると精神的に卑屈になる人がいます。「オレはこんなに頑張っているのに誰もオレを見ないで無視しやがって」と思ったりするわけです。しかし本当は誰も見ていないわけではないんですね。無視しているわけではないんです。評価していないだけなんです。

自分のやった仕事を評価するのはあくまで他人です。「いい仕事だ」と言ってくれるのは自分ではない他の人です。それは職人でも料理人でもサラリーマンでも同じです。やった仕事が結果的にいい仕事だった時に「いい仕事をした」と言ってくれるのです。やった自分が「いい仕事」だと自画自賛しても誰も信じないし評価もしません。なぜならやった”結果”というものはそれを使う人から見ていいものかどうかで評価されるからです。

製造メーカの開発者が「本当にいいものが出来ました」と言っているコマーシャルや広告をよく目にします。しかしいいものかどうかを判断するのはお客様であったり、その後工程で作業を引き継ぐ人です。その人が評価するからこそ自分が名声を手にできるのです。

衆人の中で大きな声を出して周りの視線を集め、自分は本当は誰からも重んじられるべき人間なんだと言わんばかりに騒いでも、誰からも評価されなければただのおマヌケになってしまいます。自分が自画自賛しても誰も注目しないし尊敬もされません。そしてその事に気づかずに人生を過ごしてきた人が、今になって急に尊敬され注目されようと思ってもそんなにうまくいくものではないのです。

人生には終わりがあります。その中で自分が満足するような結果を得たいのなら”自分のため”ではなく”誰かのため”に尽くすことを続けなければなりません。そしてそれは誰かから”いい評価”を得るためではありません。他の誰かのことを考え尽くすことが結果的に評価につながるだけです。結果は自然についてくるのです。もし結果がついてこないのなら、それはまだ他人への尽くし方が足りないということにほかなりません。