分かっていてもやってしまうこと

銀行やデパートの入口などでよく見かける全面ガラスの自動ドア。閉まっているドアが自動で開いて通り抜ける時には誰もが中央開きのドアの真ん中を通過しようとする。なぜならドアは真ん中から開くので中央が一番先に開いて通れるようになるからだ。
当然全部がガラスなのでドアの向こう側はよく見える。向こう側から歩いてくる人も見えるわけだが、向こう側から歩いてくる人が見えているにもかかわらずほとんどの人はやはりドアの中央を通ろうとする。その結果ドアが開くとドアの中央では両方から歩いてきた人が鉢合わせする。ドアが相手から初めてそこに人がいることがわかったかのようにだ。念の為もう一度言うが、ドアは全面がガラスで向こう側は最初からよく見えていたのだ。

向こう側に誰もいなければ何の問題もない。真ん中を通るのが一番早い。でも向こう側から歩いてくる人がいれば、普通の通路なら双方が前もってどちらかに避けて何事もなくすれ違っているのにだ。自動ドアが出現した途端にそこは通路ではなくなる。透明なガラスドアが開いた途端に相手が初めて見えたかのようにギクッと立ち止まり慌てて避けてすれ違う。傍から見ていると何とも滑稽だ。たぶん自動ドアは真ん中を通るのが一番早いとみんなの意識の中に刷り込まれているのだ。

そんな例は他にもある。渋谷駅前交差点近くの歩道。いつもごった返しているがたまに自転車で通ろうとする人がいる。当然歩行者でごった返しているので自転車に乗ったまま通過することはできずに一旦降りる。だが目の前の人がいなくなるとすぐにまたがって乗ろうとする。その先も人混みで乗ったまま通り過ぎることができないのは判りきっているのにだ。乗ったり降りたりを繰り返すより、その雑踏の中は降りたまま押して歩いたほうが早くて楽なことがわからない。「自転車は常に乗っているもの」という観念が刷り込まれているのだろう。

家の近所のコンビニに行くにも常に車を使う人がいる。その距離50メートルほどだ。車に乗ってエンジンを掛けてから運転してコンビニの駐車場まで行き駐車場に駐車して車を降りて店に入る間に、家から歩いていけば買い物を済ませて帰ってこれるほどである。それでもその人はそのコンビニに行くときは常に車を使う。それなのに”健康のために”とわざわざウォーキングもしている。コンビニでスナック菓子とコーラを買うのならせめて健康のために歩いていけばいいのにと思うが、余計なお世話だと思ってその人に言ったことはない。世の中には不可解なことが多い。

人は一旦「こうだ」と思い込むとその考えを変えたがらない。というよりも変えることが非常に難しい。習慣になって無意識にやってしまうのだ。気がついたら自然にやっていたということは誰しも経験があると思う。朝、家を出たら途中のことはあまり覚えていないのに自然といつもの通勤電車に乗っていたりする。途中の売店でいつもの缶コーヒーまでちゃんと買っているのだ。
オフィスのデスクに座ると無意識のうちにパソコンの電源を入れてメールのチェックをしていたりする。
それは自分で意識して「こうだ」と思い込んだわけでもなく毎日繰り返す行動が体に染み付いてしまったのだろう。

車の運転も同じようなものだろう。昔の車にはクラッチが付いていて車が止まっている時にはクラッチペダルを踏んでエンジンの回転がタイヤに伝わらないようにしていた。教習所で初めて運転を習った時にはクラッチペダルとアクセルペダルのタイミングと加減がなかなかわからずにエンストを繰り返したものだが、それも何千回何万回と繰り返すうちに何も考えなくても自然に扱えるようになった。恐らく技術職の仕事をされている方も同じだと思う。一つ一つの動きを都度考えながらやっていては仕事にならない。シロートがおぼつかない手つきでやることを、プロはすばやくあっけなく自然な手つきでこなしている。これも長い間繰り返してやり続けたことの成果に違いない。

ところが普段の生活の中には漫然と繰り返してはいけないこともある。先に書いた自動ドアのこともそうだが、小さなことでも何か不都合があった時にはちょっと立ち止まって「どうしてこうなったんだろう?」と考えることを習慣にしなければいけない。それを怠っていると同じ間違いを何度も繰り返しているにもかかわらず自分が間違っていることにさえ気づかないという愚を犯してしまう。

そしていちばん大切なことは自分が気づいていない間違いを指摘してくれる仲間を作っておくことだ。自分の犯した間違いには自分が一番気付かない。間違いを率直に指摘して気付かせてくれる仲間を自分の周りに置いておくことは自分の狭い視野からの脱却も可能にしてくれるのだ。ただそのためにはその仲間の声を素直に聞ける心を持ち続けなければ何の意味もない。